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元気だせデザイン・元気だぜデザイン by佐野邦雄

−−−10(最終回)デザインって一体何だろう 


以前、柳宗理さんについて「どこを切ってもデザインの血が流れ出る人」と評した
ことがある。デザインしかない私は「今回の人生はデザインで生きる」と宣言して
いる。だが、自分が一生をかける「デザインとは一体何か」が曖昧なままでは終わ
るに終われない。原点もどりだが、自説を晒して段落としたい。


1 人工腎臓ダイアライザーのデザイン:患者の側に立つこともできる

1970年代後半、私はA社の人工腎臓ダイアライザー(血液透析器)のプロジェクト
に参加した。初めて会議に出ると机の上に胃袋のような形をしたものがゴロンと置
いてあった。それが最先端の性能を持つダイアライザーだという。
私は思わず「これにデザインが必要ですか」と聞いてしまった。それから1年かけ
て流体工学を専攻したEさんと二人で取り組んだ。医療現場を見る必要があると東
京女子医大病院を訪問したが、広い室内に何人もの人が横たわり透析を受けていた。
一目見て艶のない浅黒い肌の人がいて私にも重症であることが分ったが、中に一人
まだ幼い子供が大きな声で泣いていた。私は大人だけだと思っていたので強いショ
ックを受けた。
機器の操作などの説明を受けてから、隣りの小さな部屋で一人の研究者を紹介され
た。早大理工学部の名刺を見て私は怪訝な顔をしたが、彼は「ここは病魔と闘う最
前線なんです」と言った。その言葉を忘れることが出来ない。      

それから私はデザインとして何が出来るのかを色々考えた。まずあの胃袋のような
原理モデルに、形によって視覚上の秩序を与えようと考えた。次に現場で感じたの
だが、忙しく動きながら操作する人たちの判断ミスを防ぐ物理的な対処を考えた。
それから機器に囲まれて、自分が実験室で生かされているような患者の心理を軽減
するにはどうしたらよいかを考えた。そして最終的には患者が必要以上に感じない
こと、普通であること、自然であることが一番望ましいのではないかと考えた。
病院は病気との闘いが第一義であって、患者の立場、特に心理面はどうしても二の
次になる。デザインはその患者の側にも立つことが出来る。

医療機具のデザインは生命に直接関わるので厳密だ。「そのチューブが折れ曲がっ
たら人が一人死にます」と言われたし、コストもシビアだ。「角Rをつけるため
カプセルの肉厚を1ミリ厚くすると材料費が1円アップします。年間100万本として
100万円です。それは誰が負担するのですか」と厳しい。生産数が患者数と比例す
るだけに、現代社会の断面を身近に見る思いだ。


お気に入り
人工腎臓ダイアライザー 1980 デザイン:筆者




2 中国で考えたこと:ギリギリの自己表現の媒体としてのデザイン

1992年から私はデザイン教育のため中国へ足繁く通った。当初の10年間の滞在期間
を合計すると1週間のうち1日は中国にいたことになる。行き先は二カ所で、一つは
中国文明の発祥の地、黄河の中流域にある鄭州軽工業学院で、毎春、集中講義で10
年通った。地方都市の大学だが何回か農村地帯へも行った。当時は、中国の沿岸都市
と農村地帯では50年以上の差があるように見えた。

農村を自動車で行くと時折、道端に立っている農婦の姿を見かける。労働力として生
まれてきた彼女たちを間近に見ると、自分と同じ時代に生きているこの人の人生とは
一体何なのだろうかとつい思ってしまう。
そんなある日、彼女たちの一人が赤い布を身につけているのを見た。その時「そうだ、
デザインはギリギリに生きている人間にとって、ギリギリの表現行為になり得ている
のだ」と気づいた。
貧しい生活の中で自分が好きな色の布切れを一つ身につけることによって、ギリギリ
の自己表現をしていると見えたのだ。話したり笑ったり歌ったりすることと同じよう
に、既にデザインは人間の最も基本的な行為として、ギリギリの自己表現の媒体、存
在証明にもなり得ているのだと思った。

もう一方はそれとは対称的だが、前回触れた南の広東省東莞にある工場に設けた国際
芸術研修所である。1999年から4年間、工業設計コースの主任講師を務めた。
東莞は世界の工場と呼ばれる地帯にあり、ノキアを始め1万人規模の工場がひしめいて
いる。そこに立っていると、まるで明治初期の欧米視察団員の気分だが、ここが今ま
さに世界を動かす駆動輪になっていることを実感する。
そして、その巨大なスケールの世界経済の仕組みの中で、デザインが新しい働きをど
のように見出せるかを考えざるを得ない。そこを自ら考える力量がないのなら、この
大潮流にただ従う存在でしかないことをひしひしと感じる。  



3 アジアに相応しいデザインとは:近代デザインを問う

1990年代の初め、日本では中国に対して「安価な労働力と大きな市場」という視点
しかなかった。1993年、私は通産省の東南アジアデザイン交流ミッションの一員と
して北京を訪問したが、日本側に将来を見据えたデザイン戦略はなかった。
私は「人間」を標榜するデザインが果たして経済的交流だけでいいのかと考え、自分
なりに教育でやろうと前年から上述の大学へ行きだしていた。「丁度落ち頃だよ」と
中国通の息子が言う、ソ連製の飛行機で雲の中にガタガタ突っ込んで行くときは、
自分がデザイン伝道師になった気がしたものだ。

その頃私の胸中には、戦時中に出版された小池新二氏の「汎美計画」の315頁にある
言葉「しかしこうした日本的な要求の外に華人達に何か自分達の希望があるらしい。
何かやりたいことがあるらしい」があった。
戦時下の厳しい言論統制の元で書かれたこの一節を読んで、30代でまだ熱かった私は
涙したものだ。異文化間交流では相手を尊重する謙虚な姿勢が必須だ。
中国の教育で私は常に「主体はあなたたち自身だ」とスタンスを披瀝してから講義を
したが、それでも後半の授業では胸の内ポケットに、仏教の戒律を日本へ伝えた鑑真
和尚の写真を入れていた。荒々しい中国社会では色んなことが起るが、そんな時は胸
の鑑真さんに聞きながら進めた。

しかし、授業で伝えている近代デザインは欧米の概念だ。その概念の本質を、私自身
を含めてどれだけ正確に理解しているかそれ自体が問題だが、いずれにしろ、それを
広めることはイコール欧米化ではないか。中国にも文化侵略だと反発するナショナリ
ストもいた。                       

日本は敗戦後の異常な時代状況の最中に近代デザインを受け入れて日本化した。私は
「モノつき民主主義」と呼んでいるのだが、モノに対するアブノーマルな傾斜を包含
しつつ、復興のエネルギーと一体化して日本的なデザインを確立し、工業化社会の中
で実現化し貢献した。                   

しかし多様な文化の混在を特徴とするアジアにそれを当てはめることが果たして本当
に良いことなのか、近代デザインは真に人間にとって普遍的な概念なのか、という根
本的な問いが頭をかすめる。かといって単に欧米のそれと対抗してアジア独自のデザ
インを唱えるなら、「アジアは一つ」の岡倉天心時代から何も学習したことにならな
い。

中国は国際的に遅れをとった分を取り戻すために、世界中から最先端の技術を導入し
て短期間に追いつく政策をとっている。デザイン教育もその政策に乗ってアメリカ発
のコンピュータソフトの導入が急だったが、その仕方は日本の発展の仕方とは異なっ
て、階段状の高い段差のある発展となる。
私はその段差を和らげ、線的・リニアに繋ぐために、「手」の働きを重視したプロセ
スをカリキュラムの軸とした。それはまたアジアの人びとが共有する特性を活かす方
法だと考えたからである。一見、逆行に見えるが、結果は歴史が証明してくれる。


お気に入り
中国開封にて元気溢れる小学1年生と 2002年




4 日本はどうか: 市民の意識とデザイナーの意識が噛み合っていない

成熟化してモノ余り社会の中で、日本のデザインは次の段階・フェーズに移り、逆に
デザインの原点が見えにくくなっている。経済の方法としてのデザインでは人間は全
て経済のターゲットとしての存在であり、人間の感性や分節された欲求の研究も限界
がある。
例えば建築家の安藤忠雄氏が20年ほど前「工業製品のテクスチャーは感情移入が出来
ない」と新聞で述べていたが、ターゲットとして人間を捉える工業製品のデザイナーに、
そうした一歩踏み込んだ視点はなかったと思う。              

青いことを言うようだが、もっと人間そのものの本質への探求が必要だ。「デザイン
は現象をつくる」という言葉が何十年も前に用意されている。それは「現象しかつく
れない」と同意語だ。どんな領域も現象の根には本質があるはずだ。せめて当事者と
しては本質と関わりたいではないか。                                          

工業化社会でモノを測る基準だった「質」は今日では一定レベルに達していて、情報
化時代に質は担保されているものとして扱われる。「百均」が現れる時代に「高質」
は一つの分類上の存在に過ぎなくなっている。
モノの評価は「好き嫌い」から「可愛ゆーい」になり、自動車のCMには子供を登用し
て情けない状況になっている。以前の「多様化」の尺度を超え、無尺度の個別の嗜好
にメーカーの対応システムは追いつかない。
一方で、旧来の産業社会的な仕組みから産まれるモノに巻き込まれたくないとして、
モノ離れの若者が増えている。既に情報化時代独特の生活観が定着しだしている。
もはやポスト工業化が現実となり、企業的な思考や尺度では測れない現象先行の時代
に入っている。私はそうした背景に「工業製品疲れ、インダストリー疲れ」もあると
言っているのだが、モノ作りは構造的に変革し、ごく一部を除いてモノ作りは総体と
して隘路に陥っている。
それがモノによる豊かさを追い求めてきた成熟社会の姿だ。

そんな中で出てきた「ユーザー視点」も広告代理店製のキャッチフレーズだろうが、
時代のうねりとして出現してきた潮流には注目したい。NPOを初め市民の意見が社会
的に大きな影響力を持ち出しているのは明らかだ。
消費者から使用者、そして生活者へと社会的にはフォーカスが移っているのだが、
そうした市民の常識・良識や共有感覚(勿論、日本的なコモンセンスだが)とデザイ
ナーの意識が噛み合っていないのではないか。経済のターゲットとしてのみ見る見方
では「消費者」どまりで、デザイナーは「使用者・ユーザー」は日頃から身近に感じ
ていても、「生活者」へは中々意識が広がらない。
「モノ作りを通して生活に貢献する」という枠組みそのものが金科玉条になり、いつ
の間にかそこに固定化しているように見える。専門化につきものの蛸壺だ。もっと
ジェネラルな視点を持ち社会と繋がり行動する必要がある。特にデザインの場合は。


5 自分たちでつくるデザイン:一段上の創造の価値を主軸にしたステージを

私は10年ほど前、ある高名な評論家と同席した時、「日本はこれだけ技術文明が発達
しているのにかかわらず文明批評が乏しい」と言って、烈火の如く怒らせてしまった
ことがある。
しかし今でも密かに自説が正しかったと思っている。情報技術主導の昨今は、先端と
言えば先端、多義の共存といえば多義の共存、混沌といえば混沌だが、的確な表現も
ないまま未整理な漂流状態が続いている。何でも「高度」のつくこんな時こそ、社会
批評を展開しつつ、単なる批判に終わらずに、自分たちが今どういう座標上にいるか
を明示したり、大局的に見た「時代のテーマ」を提出できる文明批評家の出現を期待
したい。
今までに経験したことがない時代の変化には、そこを受容する尺度も設けなければな
らない。その尺度を人間化し、生活に具体化する方法をデザイナーは身につけている。                   

今こそ、デザイナーが社会のために力を発揮する時が来ているのではないか。
ソーシャルデザインへの直接的な参加だ。
インダストリアルデザイナーは身軽になれないのも事実だが、そのインダストリー自
体が大きな変動を起しているのだ。旧来のパラダイムから離れて時代の変化を客観的・
構造的に見ることは出来るはずだ。
そして、そこに自分たちの新しい働きを見出して活動のステージを築くことは可能だ。
それは創造の価値を主軸にした一段上のステージだ。企業と生活者双方への発言力を
高め、自立して信頼される存在になることだ                  

20世紀に主導的だった近代デザイン概念を分析・アナリシスし、見直しつつ、一方で
人間にとってデザインとは何かを自分で考え、自得した考えに添って展開するならば
知性と感性双方の創造のエネルギーに溢れた多様なデザインと、そこに通底する本質が
見えてくる筈だ。21世紀に相応しい総合・シンセシスだ。                                

これからあらゆる時代を越えて続くデザインだ。
100年しか経っていないデザイン概念を確認することは必要だが、かたくなに固執した
り、ひたすら先鋭化するのではなく、近代に誕生した概念を「時代のテーマ」に対する
一つの視点、思考のきっかけとして受けとめて、その時代その時代の新しい要素や問題
を包含しつつ、一人一人が考えることが許されるのがデザインであり、様々に考える
プロセスを含んだ柔軟な構造をもった概念こそデザインの本質ではないか。                        

その自由さを確保しつつ(これが一番大変なのだが)創造につなげるならば、デザイン
は文明と文化を融合する、人間にとって存在理由のはっきりしたものとして生き続ける
はずだ。                                    
やや楽天的だが、明日を信じるデザイナーは楽天家・オプティミストでなければやって
いけない。上述はその楽天家に許される範囲だ。「元気だせデザイン」だ。




6 刑務所の帰りに考えたこと:モノ作りそのものに潜むもの

話は一挙に飛ぶが2009年の秋、ある少年刑務所を訪問する機会があった。刑務所は決
して明るくはないが、いろいろ改革が進んでいるのは確かだ。現に10月にTBSテレビで
「掘の中の中学校」というドラマが放映されたが、少年刑務所で実際に撮影されたもの
だ。当日は刑務作業場をいろいろ見た。
部屋に入ると「以上何名異常なし」と刑務官が敬礼しながら大きな声で報告するので、
そこが管理社会の究極の場であることに気づかされる。作業場は社会(娑婆)の不況を
反映して仕事が途絶えている部屋もいくつかあった。木工現場を多く見たが、木工は
機械加工と手加工がバランスしている。                         

刑務所には懲罰と矯正・更生の働きがあると思うが、帰りに私が考えたことは「モノ作り」
についてだ。なぜ刑務所ではモノ作りをするのかだ。
社会復帰の手段としてモノづくりを考えるのは勿論だが、もう少し深い意味があるので
はないか。モノづくりそのものの中に、性善説と似たような人間の基本的属性が潜んで
いるのではないか。
高度情報社会の今はオレオレ詐欺のように言葉とカネと欲望だけで生きている人が増え
ている。バブルの時もそうだったが、そうした価値観が蔓延する時代にはモノ作りは
鈍グサイ行為に入るのだ。今も政府はモノ作りモノ作りと繰り返すが、経済の手段として
のみ見てはいないか。だからコスト中心の経済に翻弄されて衰退してしまう。                

もう一歩踏み込んで「モノ作り」そのものについて今日的な意義を考えることが必要だ。
私のモノ作りは、ホモ・ファベル(工作人)とあるように人間の本質的属性であり基本的
営為であるという認識だ。そこが日本人の体質と合っているのだ。

単に合っているのではなく独自のモノ作りの精神を培っている。それが文化だ。
そこを時代に合わせて創造していくのがデザインの力だ。
私はモデル作りをしている時が一番無心になれるのだが、草花を育てて生命力を知るのと
同じように、モノ作りは生命を生み出すことに繋がるのだ。
刑務所でもモノ作りに携わることによって、素の人間に戻るという点があると思う。                            

もう一つは更生という具体的な目的以前に、モノ作りは社会とどこかで繋がるという意味
があると思う。社会と同じ行為をしているのだという気持が社会参加に繋がり、一人の
人間の心を支えるのだ。そのモノづくりとデザインは今やかなり一体化している。
ではデザインの根本的な働きは何か。何が貢献できるのか。中国で気づいたように「人間
のギリギリの自己表現、存在証明」とここで繋がるのではないか。
木製の名札を自分で作り自分の名を書いたらどうか。刑務所の帰りにそんなことを考えた。


お気に入り
管理から解放されたカラー表示の時計 プロトタイプ 1986 デザイン:筆者




7 小池岩太郎先生と「夕陽の沈むのを見る会」:デザインは愛  

JIDAの機関誌の編集をやっていた頃は、出版物でしか知らない大先輩の方々と出会う
ことが出来て、いろいろ教えられた。それがJIDAの良き慣習でもあった。
例えば印刷物の世界で誤字は付きものだが、私にもいくつか勲章がある。豊口克平さん
を取材して記事になり暫くしてハガキを頂いた。見ると誤字の指摘で、ソニーの盛田
さんを森田さんと書いたり、籐を藤と書いたりさんざんだった。     

その頃、一ページに顔写真をドンと載せる「人・物登場」というシリーズを考え会員を
取材して紹介したが、小池岩太郎先生を川崎晃義さん(現・長岡造形大名誉教授)と
二人でインタビューした時のことだ。発行されてすぐ川崎さんから電話があり「阿佐美
で授業中に小池先生から電話があって凄く怒られちゃった」とのことだった。聞くと
文章中で小池先生が芸大時代のご自分の恩師を呼び捨てにしていることになっている、
とのことだった。原因は私にあった。その恩師の方は社会的に有名な人であることと、
日本では身内の親しい人の敬称を省く習慣もあることから、勝手に判断して「先生」を
省いてしまったのだ。

川崎さんとご自宅へお詫びに行くと先生はお留守だったが、奥様から「小池は自分の
恩師を呼び捨てにするような人間ではありません」とぴしゃりと言われてしまった。
次号で訂正とお詫びを出したが、暫くして先生から声がかかり銀座の飲み屋へ連れて行
かれた。先生はそのことには一言も触れずじまいだった。
その後、大阪で開かれたJIDAのパーティで先生にお会いした。私は酔うと相手の腕を
つかむ癖があるのだが、その時も先生の腕をつかみながらお礼をした。先生の腕は
細かった。                 

そんなことから始まったのだが、偶然にも神宮前の私の事務所近くに先生の弟さんの
家があることが分かり、先生がふらりと立ち寄られたこともある。
当時クラフトデザイン協会の事務局が千駄ヶ谷にあり、何回か事務局へお伺いする
ことがあった。1984年のある日、小池先生と芳武茂介さんと事務局の鈴木さんと私の
4人で鳩森神社前の紅葉会館で昼食をとったことがある。私が「簡素美がこれからの
日本のキーワードになるのではないですか」と話すと、小池先生と芳武さんが簡素美
と日本の貧しい農村の家屋などについて意見が分かれてきて、次第に声が大きくなり
回りの人もびっくりしている様子になった。
まるで明治時代の書生が二人、目の前にいるようだったが、デザインについて語る
その天心爛漫さは私にはうらやましい光景だった。

数年後、小池先生と事務局の吉田真理子さんと彼女の友人の画家の4人で、東京と千葉
を隔てる江戸川の土手で「夕陽の沈むのを見る会」を催した。
先生と駅で待ち合わせたが、先生は途中「ワンカップ大関」を数本買ってから土手に
向かった。土手に座って大関を飲みながら暫くすると、東京の彼方の箱根の黒い山並み
にいよいよ夕陽が落ちかけた。その時ふと上を見ると、スッとした光の束が数本、頭上
の天空を越えてはるか後ろまで続いているのが目に入った。
その時、こんなに大きな自然の営みを見ることもなく、自分は唯ひたすら毎日働いて
いるのだと気づいた。自然の営みと自分の心が一致した時に人間は感動すると聞いて
いたが正にその瞬間だった。やがて夕陽は荘厳な儀式さながらに沈み、余韻を断ち切る
ようにして終わった。皆沈黙を守った。

その後しばらくして小池先生も吉田さんも他界された。             
私はお二人とも、あの大自然の営みに加われたのだと思っている。                         

私は中国の教壇に立った時、最終授業の別れの前に黒板の端から端まで大きく
DESIGN IS LOVEと書く。
学生の強い拍手が鳴り響く。小池先生の「デザインは愛」が伝わった瞬間だ。
そしてそのとき、新しいデザインが始まるような気がした。



謝辞
3年前、情報委員会の佐野正氏から新設されたコラム欄のサンプル役をと頼まれて、
JIDAの語り部世代の一人として書き始めたが、下級武士ならぬ下級デザイナーの記録
として原寸大を心がけた。「元気だせデザイン」の心持は持続しているが、サンプルが
いつまでもウロウロするのは恰好悪いので、この辺で段落としたい。
いつも整えてくれた佐野正氏と、ご覧頂いた方々に感謝します。        

冬の光を慈しみながら 20110110





佐野邦雄/Kunio SANO
プロダクトデザイナー/Product Designer

JIDA正会員(201-F)

プロフィール:
1938年東京中野生れ。精工舎、TAT勤務後、 JDS設立。
74年 「つくり手つかい手かんがえ手」出版。日本能率協会。
78年〜 ローレンス ハルプリンWS参加。桑沢ほか4校の講師。
79年  JIDA機関誌100号「小さいってどういうこと?」編集。
86年 東ドイツ、バウハウスデッソウゼミナール参加。
92年〜03年 中国のデザイン教育。
01年〜静岡文化芸術大教授。 定年退官後、現在2校の講師。
デザイン: 人工腎臓カプセル、六本木交叉点時計塔など 。
現在、小学1年生で経験した学童疎開の絵本を執筆中。



※連載に関してのご感想などございましたら、下記アドレスまで記名の上お送りください。
ご覧いただきましてありがとうございました。
jidasano@gmail.com

更新日:2012.01.15 (日) 05:26 - (JST)