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元気だせデザイン・元気だぜデザイン by佐野邦雄

−その2:夏の終わりに−


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●バウハウス・デッサウ展

5月末、上野の芸大美術館でバウハウス・デッサウ展を見た。建築系らしい学生がかなりいて
思いのほか賑やかだった。

学校でバウハウスについて話す機会があるが、学生の関心はもっぱら作品だ。モノの持つ力、
特に後の原型になった作品群に引かれるのだろう。そして、この頃の人気はマリアンネ・
ブラントだ。一見したところ幾何学形態は似たように見えるが、例の半球型の灰皿に代表され
るように、彼女の造形の潔さと活力を学生、特に女子学生は敏感に感じとって自分の将来像と
重ね合わす。「マリアンネ・ブラントみたいな生き方をしたい」である。

一方男子学生に多いのはマルセル・ブロイヤーだ。学生から教師になり短期間にあれだけ優れ
た鋼管椅子の原型を生んだ知的エネルギーとモノ作りのエネルギーはどこから来たのか。
展覧会を見た学生は「やっぱり実物を見てよかった」と口ぐちに言う。工房に入り浸たって
モノを作ることは自分達もやっているので、その点はリアリティがあるのだ。そして80年の
タイムラグをすんなり超えてしまう。

そこを含めて「今、なぜバウハウスか」は持続する課題だ。授業では芸術と技術の関係で説明
するのだが「時代のテーマ」が存在すると考えている。ウィリアム・モリスのアーツ・アンド
・クラフツ運動、ドイツ工作連盟、そしてバウハウス。

よく言われるように社会が進展する時は必ず専門化・分化現象が起きる。その方が効率と深化
にとって良い反面、アンバランスや時には混沌に近い状況が生じる。
そこに、いわば正・反・合の合が起きる。

自説だがモリスは揺り戻し調に、工作連盟とその延長のバウハウスのそれは、新要素の受容と
止揚による統合・総合だ。バウハウスは新しい時代の価値の規範と新しいフォルムを具体的に
提示した。「時代のテーマ」は、その状況の中からテーマを見出す眼力−巨視的に物ごとの本
質を見極める能力の力量にかかっている。

少し堅くなったが、実は私は今風に言えばバウハウス・オタクだ。
初めてバウハウス展を見たのは18歳で、近代美術館が京橋にあった頃だ。その後SEIKOに勤務
していた時、上司の清水千之助さん(後に東京造形大・拓植大教授)が、戦後版バウハウスの
ウルム造形大学の留学から帰国したが、出迎えに行った羽田空港で一緒に帰られた向井周太郎
さん(後に武蔵野美術大教授)と初めてお目にかかった。
私は後に事務所へ移ったが、そこの上司の村上輝義さん(現・ヒューマンファクター社長)も、
高校の先輩の西沢建さん(後のGK設計社長)も行かれた。

皆が行くウルム造形大学とはどんな所なのかと、1968年訪欧の際に立ち寄ってみた。
入口近くの棚には学生のペーパースカルプチュア作品が沢山並んでいたが、すでに閉校してい
るとのことだった。今考えると私は完全に「追っかけ」をやったことになる。

それでも諦めずに1986年、大島の三原山が噴火して島民が避難している最中に、東ドイツ政府
が主催した「時計」をテーマのゼミナールに参加した。
会場はバウハウス・デッサウの旧校舎である。到着の夜、ちょうど設立60周年のパーティが開
かれていた。ゼミナールが始まると毎晩夜中まで作業を続けたが後半のある夜、作業中に突然
20分ほど心臓がギュッとなった。
苦しい最中「バウハウスで終わるのも悪くないな」とフト思った。
そんなこともあったが帰国してポケットを探ると、なんとあの学生寮104号室の鍵が出てきた。
オタクとしては最高の記念品だが、コピー機でコピーして泣く泣く返した。

JIDAの報告記事に「バウハウス・デッサウの建物の中で作業をしていると、ワルター・グロピ
ウスの頭脳の中にいるようだ」と書いた。
それから20年も経つのだが、時折あがいたりするものの、近代デザイン運動の起点としての
バウハウスの理念の中に今も居続けているように思う。

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●建築がみる夢−石山修武と12の物語
建築も畑づくりも同じ未来が見えている。

8月13日、外は暑く展覧会場は熱かった。
石山修武さん(建築家・早稲田大学教授)とは以前ハチミツを購入したことがあるだけの関係
だが、その後も関心を持ち続けている。
その石山さんの代表作の一つである「世田谷村」はなんと古いご自宅の上に鉄筋を組んで新し
い空間を構築したものだ。
もう一つの代表作「ひろしまハウス」はカンボジアのプノンペンに建てたもので、それらにつ
いては乃木坂のギャラリー「間」で以前見て知っていた。
10日に放映されたNHKテレビの新日曜美術館で紹介された中に、石山さんがプノンペンの路上
に座り込んでスケッチをしている姿や飛行機内で描いているシーンを見て、よし今回はスケッ
チ中心で見ようと決めて出かけた。

会場には大きなモデルやパネルも多数あったが600枚近いスケッチは迫力があった。一枚ずつ
じっくり見たが、私の一番の関心は発想と動機の関係にあった。
クリエイターの日常は混然一体として整理不能が常態だが、そうした中から自発的に動機が発
生する場合と、他から動機が持ち込まれる場合がある。その辺りの様子に関心があった。

世田谷村は今も生成途上だが当然100%自発だ。
ひろしまハウスは募金で資金を作りレンガを一個ずつ積み上げている。
今回初めて見た沖縄の小さな島や磐梯山のプランは石山さんのコンセプトに共鳴した人が依頼
主になっているのだが全面委託ではなくて、石山さんとの共鳴とせめぎ合いの過程を共有する
中から姿を見出しているのが特徴的だ。
スケッチの中には石山さんの描いたイメージ空間の中に依頼主が描かれているのもあって微笑
ましい。

そうした心遣いと並行して、一方でイメージを最大限に広げ発想する段階が圧倒的だ。
太い筆で紙面にぶつけるように描いた円や塊は強烈でその激しい感情は他者には計り知れない。

頭に浮かんだイメージ(私は脳画と名づけているのだが)は一切の夾雑物を排して紙面上に
炸裂する。
私はスケッチに圧倒されながら「自由」について考えた。他者からの解放だけでなく、自分の
中に溜まったオリからも解放されたい。
そして自由を獲得するための具体的な方法は飽くなき脳作業と手作業だと思う。
スケッチなのだ。

インダストリアルデザインと建築で異なる点は「場」との関わりの深さではないか。石山さん
のスケッチも現場で感じながら考えたものは一層いきいきしている。そこは羨ましい。
展覧会場でスケッチを見ていると、カテーテルになって石山さんの脳の血管を巡っているよう
な気がした。
それはバウハウス・デッサウのグロピウスの時と同じだ。
ヘンテコリンなビルが次々と建つ中で、石山さんは生き方を中心に据えた仕組みを建築の一つ
のあり方として提示し続ける。



●北京オリンピック

2003年春のSARS騒ぎの最中、中国河南省の大学へ集中講義で行き3年生相手に授業を行った。
課題の全体テーマを「2008年北京オリンピックへのデザインからのアプローチ」とした。
途中で立ち寄った北京でオリンピック競技場の予定地をタクシーで回ったがまだ何もなかった。
学生をグループに分け、想定される具体的テーマを考えるよう指示した。
テーマが決まりしばらくするとバスストップやサイン計画などの作品がいくつか出来上がった。
中に大通りのゴミ処理システムのユニークな提案があった。人通りも多くゴミも多い通路では、
地上の容器だけでは間にあわないので、地下に穴をあけて一時溜めておくという新しい発想の
アイデアだった。
以前、100万人が集まるという天安門広場のトイレの方法を聞いたことがある。
広場の後方の周りの敷石を剥がすと、下が水路になっていて簡単に処理できるとのことだった。
どこか共通点があって面白い。

夜、宿舎に4年の優秀な学生から電話があった。
北京の繁華街、王府井のオリンピックに向けての再開発計画プロジェクトに参加するため北京
行きの列車からだという。

それから5年、今年3月末、招かれて同校へ行く途中北京へ立ち寄った。夜、オリンピック競技
場へ行くと噂の鳥の巣はほぼ完成していた。鳥の巣を真横から見ると大鷲が今まさに飛び立つ
瞬間のように見え、そこに中国の意気を感じた。
全く知らなかった水泳競技場の「水の立方体」はたまたま点灯されていて、息を飲むほどの美
しいブルーに感動した。

8月8日夜、開会式のテレビ中継が始まった。
花火で描かれる大きな足跡が一歩一歩鳥の巣へ近ずく映像を見た時、石山修武さんのプノンペン
のひろしまハウスを思い出した。
石山さんはその建物の屋上高く巨大な仏像をイメージし足跡を描いていたのだ。

2008人が一糸乱れず電光表示付の電子太鼓を打ち鳴らすパフォーマンスは空前絶後の凄さだっ
た。テクノロジーは目標設定をすれば猛烈なスピードで実現に近ずくが、一方の身体の習得は
有限だ。道具は身体機能の延長だから身体とどこかで同調するのだろうが、その一点を見事に
現前した。
人間と道具の関係についての文明史的な観点からも興味深い。まさに人機一体だ。

連日様々な競技が行われ、人間の身体能力の極限が示された。
競技そのものは厳しいものだが出場している選手は本当にさまざまで、肌の色、背の高さ、
太った人痩せた人、笑う人泣く人、実に多様でそれらの人びとを見ていると「全地球人運動会」
にも見えてきた。
同じように感じた人も多いと思う。私はそこが大事だと思う。



●感動が多かったこの夏の終わりに

もうパラリンピックも終わる。
たまたま6月末にパシフィコ横浜で開かれた「ヨコハマ・ヒューマン&テクノランド2008」へ
行った。
頑張っているJIDAの高波晃さん、鈴木宏明さん、篠原宏さんにお会いした。
そこで競技用の義足に触れてみた。それから産業能率大の学生が開発した移動機具を見た。
畳半分ほどの平板に駆動輪をつけ、簡単なコントローラーで前後左右に動く。ただそれだけだ
が、生まれつき脚の不自由な幼児が乗り自分で操作出来るという。
「生まれて初めて自分の意志で動けるのです」と聞いた時、わけもなく感動してしまった。

今年の夏は感動が多かったように思う。
あるいはこれも年をとったせいか。                       20080915




佐野邦雄/Kunio SANO
プロダクトデザイナー/Product Designer

JIDA正会員(201-F)

プロフィール:
1938年東京中野生れ。精工舎、TAT勤務後、 JDS設立。                        
74年 「つくり手つかい手かんがえ手」出版。日本能率協会。
78年〜 ローレンス ハルプリンWS参加。桑沢ほか4校の講師。                                     
79年  JIDA機関誌100号「小さいってどういうこと?」編集。
86年 東ドイツ、バウハウスデッソウゼミナール参加。
92年〜03年 中国のデザイン教育。
01年〜静岡文化芸術大教授。 定年退官後、現在2校の講師。                                
デザイン: 人工腎臓カプセル、六本木交叉点時計塔など 。
現在、小学1年生で経験した学童疎開の絵本を執筆中。

更新日:2012.01.06 (金) 08:09 - (JST)