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元気だせデザイン・元気だぜデザイン by佐野邦雄

−その3:秋の終わりにー 追憶の人々:渡辺篤治さんのこと



●「機関誌委員会は歯ブラシ持参」

30歳になった時、JIDAに入っていてもあまり得ることもないと思い、推薦人の松丸隆さんの家に
辞意を伝えにいった。すると「何か委員会に入っているの」と聞かれ「別に」というと
「それじゃあ、JIDAに入ってもJIDAを知らないまま辞めてしまうことになる。委員会活動をして
大きな渦巻きの中心に入って、それで厭ならしようがない」と言われた。「どの委員会か」と聞く
と「機関誌委員会」と即座に言われた。当時、渋谷にあった事務局の委員会に出かけると皆黙々と
文字の校正をやっていて「機関誌委員会は歯ブラシ持参」とのことだった。窓の外には、どぎつい
ラブホテルのネオンが沢山あって好対照だった。

ある時、委員の日産自動車の吉田章夫さんとフリーランスの宮崎恭一さんがかなり激しいやり取り
をした。ちょうどその頃、日本ではメッキ公害が問題として浮上していて、都会にいくつもあった
メッキ屋さんは都会からかなり離れたところに新設された工場団地に移り始めていたが、そのメッ
キについての議論だった。宮崎さんはその頃未だ大きくピカピカだった自動車のバンパーのメッキ
について「最終的にメッキと指定するのはデザイナーだ。だからメッキ公害の責任の一端はデザイ
ナーにある。デザイナーの意識改革が先決だ」と責め立てた。吉田さんは「あれはただの飾りや趣
向ではなく、夜間走行の際に反射の役目をする実用性の大きいものなのだ」と反論した。

結論は勿論出なかったが、社会問題が身近な当事者に直結していて迫力があった。私は手銭正道さ
ん、金子修也さん、豊口協さん、井ノ口誼さんと続く花形部会長・委員長の下で「忙しい−−は理
由にならぬ」と鍛えられ渋谷邦男さんを継いで委員長になった。
「頭の悪い奴は足を使え」の言葉通り動き回った。その頃のジンクスに「機関誌をやると事務所が
おかしくなる」があったがそれも忠実になぞった。

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●「人間としての生き方を曲げてまでもデザイナーでありたいとは思わない」

1979年、機関誌102号の「事務所訪問」で渡辺篤治さんを取材するために、名古屋へ出かけた。
渡辺さんが主宰するユニデザインは、あのカラー・リングのついた鋏をデザインして日本の文房具
(別名・貧乏具)を「ステーショナリー」に変えるきっかけを作ったところだ。インタビューを始
めるといきなり核心に触れる話題になった。

「人間誰しもが生き方の問題に行くんでしょうが。確かにそりゃデザイナーはデザイナーで、もの
のデザインをして食べていくでしょうし、サラリーマンはサラリーマンでその会社の仕事をやって
食べていくんでしょうけど、食べることと生きることが分離して行くんじゃないかなあと。デザイ
ナーでも、デザインすることと生きることが分離するというか。われわれフリーの場合は(人間誰
しもそうなんでしょうけど)、それを一致させたいと、生き方と食べ方をね。」
「個人的には非常に、生き方のためのデザインというような志向が強いわけですから、自分の生活
体験で理解できるというか、そんなもののデザインは興味持てるんですが、あまり自分の生活体験
が必要でないデザインはやりたくない気がしますね。生活体験は幅が広ければ広い程いいとは思う
んですけど、今までの場合、生活体験ということが消費体験とくっついちゃっているでしょう。
だからそれは生き方の問題じぁないという気がしますね。生活体験というよりはレジャー体験みた
いなもので、自分の生き方とは関係が無い(語弊があるかもしれないけど)。

一般消費者全体の志向を直感するというより、判かってくれなけりゃくれなくていいって気がする
んですよ。極端に言うとね。僕のデザインしたものが消費者に理解されなけりゃ勿論売れないでし
ょうけどね。それならそれで仕方がないんじゃないかっていう気がするわけです。自分がこうでな
くてはいけないんだということを、だからデザイナーとしてよりも、人間として、こういう生き方
がしたいんだということを曲げてまでも、デザイナーでありたいとは思わない。

そういうのも居ていいんじゃないかという気もするしね。

あまりにもデザイン、デザインって追いかけちゃうと、何がデザインか判らなくなってくる。そう
いうことがこれから大事になるんじゃないですか。」



●渡辺さんの「日本文化創造塾構想」

私はそのインタビューの書き起こしをしながら、私がその頃もやもやとしながら考えていたことが、
渡辺さんの口を借りてすらすらと話しているかのような錯覚に陥りそうだった。私は「人間として
の生き方を曲げてまでもデザイナーでありたいとは思わない」という渡辺さんの言った一節をタイ
トルにした。そのタイトルをつけた時、私はまるで自分が発した言葉のような気がした。

それから数年後大阪のJIDAの会議で、自分の畑で作った無農薬野菜を高々と差し上げている渡辺さ
んの姿を見たが、その後は人づてに渡辺さんが身体を壊していることや、それでも遠方からの訪問
者がある時などは、何軒もはしごをして深酒をしているということも聞いた。それから遂に肝硬変
がひどくなっているということも聞くことになった。私はあの激しいタイトルが渡辺さんをかえっ
て追い込んだのではないかと自責の念に駆られたりもした。そんなある日、渡辺さんから一通の手
紙が届いた。中に殴り書きのメモが書かれていた。


「私たちの学園は英才教育をいたしません。国家、地方の行政官には、その
ような人も必要でしょう。しかし偏差値や記憶力(に基づいた)現在の教育
制度(や)体制への順応性に欠ける子供達、感受性豊かで人間性にあふれた
子供達は、今の教育制度と教師に疑問をもち批判的でもあります。

このままの日本を考えますともっと別な美と知を本当に理解し、創造力ある
若者を必要とする時代がすぐ近くに訪れるように思います。

そこで私(借金だらけ)が、あえて−−−−−−−−−氏らの御協力のもと、
日本文化創造塾を日本海の先端に創立したく思っております。

これは−−−−−−−−の区長、京都漁協、−−−−−−−−−専務の御理
解御支援を得ました(上で)創立するものです。

芸術を学ぶものにとっては、まず自然を身でもって体験し理解することです。
一年間は農耕、畜産、漁業と共に造形の基礎を自然の中で学ばせ、二−−三
年はPD(プロダクトデザイン)GD(グラフィックデザイン)CD(クラフトデ
ザイン)テキスタイルの各コースに分け、専門の基礎教育を致したいと思っ
ております。

しかし本塾はデザインのみの教育機関ではなく、将来は中学一年より大学
(三)年までの芸術全般にわたる教育を致したく思っております。
幾歳月かかるか分かりませんが、私の友人達のもつセミナーハウスとのネッ
トワークで幼年時より青年期まで新しい日本文化創造のいおりにしたく思っ
ております。
私一代で、これが完成するなどとは思っておりません。よき後継者を育て、
日本の文化が創造できる人々を育てる所存でございます」。
Toku


【渡辺氏メモ原文】
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渡辺さんは、それから暫くしてカリフォルニアワインを一本送ってきてくれた。どんな思いが込められ
ていたのかは分からない。渡辺さんの死を聞いた日、秋葉原のホームで何故かダニーボーイが流れた。
私は失ってしまった人の大きさを思った。1年後、ユニデザイン事務所が閉鎖されることになり私はT定
規を頂いた。それは今も私のそばにあり時々胸を撃つ。

20081103



佐野邦雄/Kunio SANO
プロダクトデザイナー/Product Designer

JIDA正会員(201-F)

プロフィール:
1938年東京中野生れ。精工舎、TAT勤務後、 JDS設立。
74年 「つくり手つかい手かんがえ手」出版。日本能率協会。
78年〜 ローレンス ハルプリンWS参加。桑沢ほか4校の講師。
79年  JIDA機関誌100号「小さいってどういうこと?」編集。
86年 東ドイツ、バウハウスデッソウゼミナール参加。
92年〜03年 中国のデザイン教育。
01年〜静岡文化芸術大教授。 定年退官後、現在2校の講師。
デザイン: 人工腎臓カプセル、六本木交叉点時計塔など 。
現在、小学1年生で経験した学童疎開の絵本を執筆中。

更新日:2012.01.06 (金) 08:10 - (JST)