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元気だせデザイン・元気だぜデザイン by佐野邦雄

–––その4:段ボール箱からのメッセージ



あっという間に7ヶ月が過ぎた。「60才を過ぎると坂道を転げ落ちるようだ」と、
以前クライアントの明治生まれの部長から聞いたが、最近も「年齢にkm/時をつけ
ればいい」という説を読んだ。
それほどとは思わないが。

一昨年春、引っ越しをした時の段ボール箱が部屋に30ばかりあり、いよいよ危な
くなってきたので、一つでも減らそうと「新聞」と書いてあるのを開いてみた。残
してあるところを見るとその時々の自分の関心事が思い起こされて興味深い。久し
ぶりに見た瞬間、頭に浮かんだことなどを書き添えて紹介したい。


1950年代
● 今日開けた中で一番古いのは読売新聞の昭和34(1959)年4月10日で、もうお分
かりのように皇太子明仁親王と正田美智子さんの「結婚の儀」だ。
–––美智子さん「妃」となる–––と見出しにある。晴れやかな写真を見ながら恐れ多
い話だが2004年、両陛下が浜松の大学へお寄りの際、間伐材を利用して学生がデザ
インして製作し私が仕上げ加工をしたベンチにお掛けになったことを思い出した。
杖立ての凹みが浅くて杖が倒れてしまったとも聞いた。学生は間伐材について陛下か
ら「何年経った間伐材ですか」と質問されて焦ったという。陛下のエコは一歩踏み込
んでおられるのだ。


1960年代
● 昭和42年10月31日の東京新聞は「おごそかに吉田元首相の国葬」–––偉業たたえ
て六千五百人参列。大きな写真の下に「それがあなたでした」の詩題でサトウハチ
ロウさんが書いている。
「はっきりと怒り/くったくなく笑い/泣きたいときには/ひとりでいっぱいお泣き
になった/–––それがあなたでした」–––麻生さんも我慢ばかりせずにと思う。
吉田さんは大磯に住んでいて私の出た小学校で、選挙の投票の時に下駄を脱がなかっ
たとかで騒ぎになったり湘南道路を自分のために作ったとか聞いたが、私にとって
は誇りだった。家が先日焼失したのは何かが断ち切れてしまったようで寂しい。

● 茶色に変色している新聞を見ると昭和44年(1969)6月17日の日本経済新聞産業
特集で「住宅産業」を取り上げている。「都市を創造する」「巨大市場へ多彩な戦略」
とあり、大和ハウス竜ヶ崎工場の現場写真には「マイホームは工場から“誕生” 」と
キャプションがついている。
前年に南ドイツのウルム造形大学跡へ行った時、まだ庭にプレハブの実験棟があった
が、日本のプレハブの実用化は意外と早かったのだ。

● 昭和44年7月31日の朝日新聞夕刊には東工大教授の永井道雄氏がヨーロッパの大学
改革として「国によって異なる展開」のタイトルで文章を書き、「昨年5月、フラン
スをゆるがしたパリの学生デモ」の写真がある。まさにここを起点としてうねりとし
て世界に広がったオリジナルのデモだ。                      
紙面下にコラムがあって「傍観者の偏見」のタイトルで
団伊玖磨:「つまりね。ビートルズの演奏は電気の力を借りた単なるハッタリさ。
音楽と思わなきゃ、腹も立たないがね」
浅利慶太:「ビートルズは文化ではないね。単なる雑音だよ」
高瀬広居:「もっともビートルズを音楽としてとらえるから腹が立つんで、あれはモッ
プという奴等の髪型に象徴される社会現象とみれば、見方もおのずから異なってくる」
とある。
そして「時代と共に歩み、そこに生れる若い文化の意味をとらえていくことの困難さ
をあらためて考えさせられる。」と書いている。
後年、新宿の朝日生命ホールでJIDAのフォーラムが開かれた時、丹下健三氏が「私は、
若い人の言っていることを信じる。なぜなら彼らの意見の中に、我々には無いなにか
新しい考えが必ず潜んでいるからだ」と言ったことを思い出す。
謙虚さがもたらすものがあると私も信じている。

● 昭和44年(日付不明)の朝日新聞には「情報化時代と電算機の役割」のタイトル
で岸田純之助氏が「独占管理防ぐカギ」「処理手段、すべての人に」のタイトルで書
いている。岸田氏はJIDAでも話をされたことがある。下に囲み記事で興味のあるこ
とが紹介されている。
「情報化社会は、現代の工業化社会の次に来る社会に対して日本の未来学者たちが
つけた名称である。–––超技術社会と呼ばれたこともあった。ポスト・インダストリ
アル・ソサエティ(脱工業化社会)が最も一般的な呼び方だが、米国ではこのほか知
識社会、テクネトロニクス時代(情報技術が中心になる時代)、動的社会などの言葉
も使われている。」とある。
今、私たちは未来学者の名づけた社会に生きているのである。


1970年代
● 昭和45年(1970)年は大阪の万博が開催された年で、(新聞名不明)「私のみた
EXPO‘70」のシリーズで建築家の黒川紀章氏が「未来都市」というタイトルで3月27・
28日に連載し、最後の部分に「ともかく今回の万国博で未来都市、未来住宅の姿を
みることができる。
カプセル化といい、装置化といい、そこには新しい技術が要求されるが、それは単な
る技術だけの問題ではないようである。主体はあくまでも人間であるという考えが強
く感じられる。住んでいる人間が建築のプランをたて、自分の環境は自分でつくるの
だということだ。
技術は人間の要求からでたもので、人間によってコントロールされるのである。
都市設計、建築の分野では技術のための技術の時代は終わったのである。」と書いて
いる。当時、私はたまたま松下の仕事をしていたのだか、「黒川さんのを見ておいて」
といわれて帰りに万博会場へ行き時間ぎりぎり見た記憶がある。
技術主導・技術依存がますます強まる昨今、元気だせデザインだ。

● 45年10月23日の読売新聞には当時まだ若かった国際政治学者の高坂正堯氏が「日本
の“集団主義”打ち破るのは地方自治以外にない」と述べており、「中央集権は世界的
に反省期」の小見出しもある。真の先見性というのはやはりあるのだなと思う。
30年後、高坂氏は浜松の大学の学長になる寸前に亡くなられた。残念なことである。                
たまたま昨日、静岡の県知事選挙が行われ、現学長の川勝平太氏が知事に当選した。
この閉塞状況を地方からブレークスルーし一歩進めて頂きたい。ついでだが前知事の
石川氏は同じ大学の理事長だったので、静岡県知事は理事長から学長へ移っただけの
ことである。大騒ぎしているのは、自分のやっていることに自信のない中央だけだ。


■ ここまで書いてふと見ると、まだ3分の1までも減っていないので
慌ててデザイン関連を拾い出す。


お気に入り


1990年代
● 93年(平成5年)6月4日読売新聞。「建築批評」。建築史の鈴木博之氏。「文化
理解としての建築教育を」–––「作り手」養成のみでは不十分–––のタイトルで、
「ハーバード大学の客員教授の体験で一番印象的だったのは、学生たちからの『先生
はどこからきたのか』という質問である。
『東京大学から』と答えると、『ああ、トーダイ』と彼らもトーダイというのは知っ
ている。そして私は建築史をここでは美術史学科で教えているけれど、日本では建築
学科に所属していると話すと、それはそうかもしれませんね、という顔をする。
そこで、建築学科は工学部に属していると話をすすめると、彼らはエッというような
顔になる。中にはプッと吹きだした奴もいた。
というのも、建築史の講義では、現代日本の情況をも含めて、建築を通じて文化のあ
り方を示すという作業がおこなわれるからであった。」「日本の都市や建築をよりよ
いものにしてゆくためには、日本の文化を相対化し、広い視野から理解しなおすこと
が必要である。そのための建築教育、建築理解の機会が設けられてもよいのではなか
ろうか。
東京という都市も、そこから新しく見直されることになるだろう。世界でもっともユ
ニークな都市景観のひとつを持つ日本でこそ、建築や造型による文化解釈の研究が作
り上げられてしかるべきだと思われるのである。」と記している。
もちろんIDにも同じ視点が必要だ。

● 93年12月24日読売新聞。デザイン季評の欄で柏木博氏が「読書の新形式「電子本」
–––「装置」超え新たな文化を形成–––のタイトルで書かれている。JIDAの人々も深
く関わった広島現代美術館の「デザイン・メイド・イン・ニッポン」等について「戦
後のデザインを振り返る企画がふえているのは、世紀末と言うこともあるだろうが、
他方では道具や機械のデザインの時代から電子装置やソフトのデザインへと変化して
いる現在こそ、かつてのモダンデザインが何をしようとしていたのかを検証しておこ
うとする意識がでていることが、その要因として上げられるだろう。」とのべ、
続いてパリのグランパレで開かれた「デザイン–––世紀の鏡」を紹介し、次のように
述べている。
「いかなる生活環境を構成すべきかという近代のプロジェクトとしてのデザインが展
開された二十世紀前半と、技術と市場の論理で展開された後半との差異がその展示か
らうかがえる。日本のデザインの紹介はもちろん後半に位置する。
日本の社会が、自らの環境に対する明確なプロジェクトを持つことなく技術と市場の
論理だけで成長してきたことを、それは映し出していた。
バブル経済が終焉して日本のデザインの活気が失われたのは、生活環境の問題に目を
むけてこなかったからだろう。」16年前の指摘だが情況は今も続いている。
「バブルの崩壊」が「100年に一度の不況」に変わっただけの今こそ、転機へ向けて
のきっかけを模索する時ではないかと思う。

● 94年8月13日。朝日新聞。「建築に社会性を」。「JR京都駅の設計を手掛けている
建築家で東大生産技術研教授の原広司さんは、二千七百枚に及ぶ実施設計を仕上げた
ばかり。現場での作業を前に、頭の中は建築の『社会性』『公共性』という問題で占
められている。
『現代建築は面白いものをつくってきたが、社会のために、人のために、ということ
をかたらなくなってしまった。もう、このままでいい時代ではないと思う』京都駅が
景観論争を呼んだのも社会性が注目される証拠。それだけに、建築自体が一つの都市
になり、共同の場として機能するように、開かれた公共空間を重視した。」と。
若い時から憧れていた原さんにはJIDAの機関誌を担当することになってすぐ原稿を
依頼しに六本木へ伺った。「自分たちでなにかやるなら協力するよ」と言われたまま
30年も経ってしまった。結局、なにもやってないのだ。 

● 94年12月31日朝日。「リーダーシップとは何か」の欄で梅原猛氏が「強い理念と
謙虚さ必要」を書いている。梅原氏はJIDAの日本海運倶楽部での会議で講演されたが、
同じ日、住居学の吉坂隆正先生も講演された。
偶然、梅原猛氏が後方にいた私の隣に座ったのだが、講演が始まるとすぐ、隣の梅原
氏は「そうだ!そうだ!」と自分の膝を力強くたたきながら頷き通した。私は圧倒さ
れてしまった。
以来、梅原氏の主張に接する都度あの熱烈ぶりを思い出す。
隣と言えば、いつか国際文化会館で心理学の大家、小保内虎夫先生が隣に座ったこと
がある。先生は酒の匂いがぷんぷんだったが、山賊の親分がそうであるように学問の
大家に相応しい姿だった。それを受容する社会が存在したのだ。
話はさらに飛ぶが、先に中川昭一財務大臣がモーロー会見をして辞任した。79年に
「米の未来学」という本の取材で父上の中川一郎農水大臣の部屋に入ったことがある。
その時の大臣は分厚い本をめくっていて真面目そのものだった。再起して父上以上の
政治家に是非なって頂きたいと陰ながら思う。

● 1995年9月6日の東京新聞には西武渋谷の全面広告で黒川雅之さん夫妻が「こんな
お店が、ほしかった。」のキャッチフレーズの脇にこちらを向いて笑って立っている。
黒川さんはJIDAの5月6日の本音トークで話して頂いたが、髪の色が少し変わっただけ
で元気さはそのままだ。デザインはやはりエネルギーの発露なのだ。

お気に入り


結局、全然片づかないまま、昼になってしまった。     2009年7月6日記


佐野邦雄/Kunio SANO
プロダクトデザイナー/Product Designer

JIDA正会員(201-F)

プロフィール:
1938年東京中野生れ。精工舎、TAT勤務後、 JDS設立。
74年 「つくり手つかい手かんがえ手」出版。日本能率協会。
78年〜 ローレンス ハルプリンWS参加。桑沢ほか4校の講師。
79年  JIDA機関誌100号「小さいってどういうこと?」編集。
86年 東ドイツ、バウハウスデッソウゼミナール参加。
92年〜03年 中国のデザイン教育。
01年〜静岡文化芸術大教授。 定年退官後、現在2校の講師。
デザイン: 人工腎臓カプセル、六本木交叉点時計塔など 。
現在、小学1年生で経験した学童疎開の絵本を執筆中。

更新日:2012.01.06 (金) 08:22 - (JST)