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元気だせデザイン・元気だぜデザイン by佐野邦雄

–––5:「若きデザイナーたちの肖像」–––堀田善衛に倣って



浅草にて
昨日、二人の孫娘と恒例の夏休みの東京行をやった。2年続けて上野動物園へ
行ったのだが、中学生になった上の子が「動物園はもうちょっと」というので、
浅草にしようかと言ったら「花やしき」を知っているという。早出して10時過
ぎに雷門に着いた。人力車が凄く増えていて私たちまで声をかけてくる。

仲見世を通って浅草寺に参拝し、昼食をとってから花やしきへ入ることにして
大通りに戻った。苦手のハンバーグにつき合ってから交差点近くの八つ目鰻の
店に行った。そこで見せたいものがあった。家内が彼女らの父親を身籠った時
ツワリが酷くて、まるで夕鶴のおつうさんのように痩せ細ってしまった。

そんなとき男はまるで無力で何とかしようと、この店の八つ目鰻の肝油缶を
買ったことがあるのだ。「その先にあなたたちは生まれたのだよ」というと
フーンという顔をした。それから交差点へ行き、寿町に近い8階建てのビルが
残っているのを確かめてから、「あそこが私が初めて事務所を開いた所だよ」
と教えた。


TATでの修業
自分がいなくてもこの会社は大丈夫だ、もっと自分の力がはっきり分かる中小
零細企業相手のデザイナーになろうという、私の勝手な願いを聞いてくれたのは、
SEIKOへ同期に入社した千葉大出身の三ツ木淳さんだった。
事務所のノウハウを身につけるには経験が必要だと、三ツ木さんは恩師の産業工
芸試験所の知久篤さんを紹介してくれた。試験所へ行くと知久さんはTAT工業デ
ザイン研究所を推薦してくれた。それから部長の明石一男さんにも紹介してくれた。

TATという名は松丸隆さん(後のJIDA事務局長)、知久篤さん、村上輝義さん
(ヒューマンファクター)の名前から命名したという。事務所は茅場町にあった。
当時TATは大いに活躍していて、松屋のデザインコミッティーの年間賞に選ばれた
アルミの鍋シリーズが、銀座通りに面したショーウィンドーに飾ってあったりした。 

TATでは色々なことを覚えた。知久さんからは外観だけでなく構造まで検討する
ようにと教わった。松丸さんからは酒を。その酒の席で「俺は子供のころ中国で
お世話になった。いつか工業デザインで恩返ししたい」「じゃあ、その時は私が
お手伝いしますよ」と交わした約束が、30年後に実現することになった。村上
さんからは「その仕事で自分は食っているんだという意識が足りない」と言われ、
事務所へ来た千葉大の福井晃一先生からは「君が出世してビルを建てたら守衛に
雇って」と冗談を言われた。

見積書の書き方からキャバレーの接待の仕方まで教わったが、何せ給料が安かった。
ある日、昼飯を食べようと外へ出たが一番安い蕎麦を食べるのに10円足りなくて、
青木繁の海の幸があるブリジストン美術館へ入ったことがある。その思い出は私の
誇りの一つとなった。食うためにのみ生きるに非ずだ。

(ここで丁度FMラジオから芸大名誉教授の畑中良輔氏が出演している番組で、
柳兼子の「椰子の実」が聴こえてきた。柳宗理さんは浜松の大学の講演で大倉
冨美雄さんや野中寿晴さんと共に上がった壇上で、子供の時に母親(柳兼子)が
歌ってくれたという子守唄を気持良さそうに口ずさんだことがある。)


自立すれども仕事なし
2年後、おおよそ分かった所でTATを退職し自立したがクライアントはゼロ。
デパートへ行ってデザインの良くない製品を見つけては社長宛に手紙を出した。
桐生の秤の会社から「丁度デザイナーを探しているところだった」との返事が来た。
時計と似ている秤は取りつきやすく、キッチンスケールをデザインしてGマークに
選定され、伊香保温泉で芸者を呼んで祝ってくれた。
(それはヒットしてパンフレットを作った時には既に20万台売れたと書いてある。)
当時知り合った物産会社の嘱託になり、嘱託料の代りにフロアの一部を仕切って
自分のスペースを作り事務所とした。それが先述の浅草のビルである。

物産会社の仕事はGレコードとT信託銀行で、その経験が後になって役に立つとは
思わなかったのだが、初めてグラフィックデザインのみを一年続けた。嘱託料は
スペース代に消えるので現金収入が殆どない。JIDAで知り合った準会員でリコー
出身の渡辺章夫さんが一緒にやるようになったが二人ともゲルピンで昼になっても
昼食代がない。当時も浅草にはパチンコ屋が沢山あったが、時には床に落ちている
球を拾っては昼飯代わりのドラ焼きを取ろうと必死になってやったこともある。
駄目な時は無言で大通りを歩いて帰った。
1年ほど経ったある日、TAT時代に私が担当していたF社の担当者から電話があり
「随分探したんですよ」ということだった。JIDAの事務局で聞いたという。


お気に入り
1967 キッチンスケール


「オカムラ環具コンペ」特選一席
それから暫くして、サンヨーを退職して帰京した同級生の深井利員さんと組んで、
市ヶ谷の文房具屋の二階の貸事務室が並んでいる所に事務所を開いた。隣室は
偶然だがグラフィックデザインの事務所で、暫くすると「ちょっとR定規貸して」
などと始まった。仕事が増え手狭になり、桜の季節には花びらが飛び込んでくる
市ヶ谷の土手の上へ移った。その頃、乳母車の仕事もしていたので、引越は乳母車
に荷物を山ほど積んで運んだ。ユニティデザインと名づけた。
異なった要素が束になって一つのベクトルに向かうという意味だ。日立の仕事も
やるようになって5人に増えた。年に一人は外国へ行く制度を作り私の番でヨーロッ
パを巡った。

帰国して、1970年に岡村製作所のコンペがあるのを知った。「環具」という造語
で名づけられ強い意気込みが感じられた。審査員は建築・デザイン評論の川添登、
江戸東京博物館を設計した菊竹清訓、未来学会会長の林雄二郎、工学者の森政弘、
IDからは栄久庵憲司の各氏で、はじき飛ばされそうな面々だった。

私はヨーロッパでずっと日本のことを考えていた。その頃の日本人には、何か
精神的な支柱が欠けているのではないかと思っていた。「日本的なるもの」は当時、
戦前の復古調への危なさを払拭出来ないところがあったが、柱をシンボルにすること
自体は人間の普遍的営為と思われた。そして、日本家屋の精神的象徴であった大黒柱
に代わるもので、柱を軸に壁が目的に応じて展開し、かつ新時代に相応しく、外と
繋がる情報的要素も包含するシステムを考えた。締め切り3日前から皆に手伝って
貰ってパネルにまとめ「サーヴァント・ファニチャー・システム」と名づけた。
締め切り時間が過ぎてしまい電話をしてから赤坂見附の新築のビルに持ちこむと受付
の人が笑っていた。                          

暫くして、オカムラから表彰式の案内があった。当日行くと立派な会場に備え付け
られた最先端のマルチスクリーンに、入選の下位から発表が始まった。いつまで経っ
ても自分たちの名が呼ばれない。遂に特選三位、二位と著名なデザイナー、建築家が
続く。あれ、今日は応募者全員が招待されたのかと思った最後の最後に私たちの名が
呼ばれた。
舞台上で、ゴルフ競技の賞金表示のように紙幣を大きく拡大して3,000,000円と書か
れたボードを持たされた。応募の際の代表者名を当時社長だった深井利員としていた
ので彼がインタビューを受け、私は川添登氏が「この作品はモーツアルト的だね」と
評したことの意味を考えていた。


賞金で事務所を設立
賞金は1/2を私が貰い、残りを3人が山分けした。私はそれを資本金にしてジョイント
・デザイン・システムを設立し独立した。仕事が急に増えて本郷の細いペンシルビル
の5階のワンフロアを借りた。オープニングパーティは盛大な飲み会になり、翌朝見
ると知らない人が何人も転がっていた。やっと余裕ができて渡辺章夫さんの縁で週1回
夜9時に新宿へ通い、あのメリージェーンで有名な、つのだひろの兄さんから詩吟を
習った。これは後に教育に携わるようになって大きな声を出すのに役立った。
そして、市ヶ谷の隣室で偶然知り合ったグラフィックデザイナーの高崎勝也さんを
取締役に迎えた。訪欧の際、パリのデザイナーから、なぜ自分がデザインしたものの
パッケージからディスプレィ、広告まで一貫してやらないのか、プロダクトだけで
終りにするのは無責任だといわれたからだ。

その頃「室内」誌の「新人です」という欄に紹介されたことがある。紹介者はJIDA
機関誌で知り合いになった豊口協さんだった。以前、豊口さんには時計会社に入った
ばかりは楕円定規が未だなくて、朝会社へ行くと時計のスケッチを描くために楕円を
何枚も描くのですと話したことがあり、「おそらく楕円を描かせたら右に並ぶ者は
いないだろう」と書かれてしまった。本が出てから猛烈に練習した。宮本武蔵では
ないが、いつ挑戦されるか分からないからである。

ジョイント・デザイン・システムはその後25年間続いた。ご存知の通りJIDAの監事
をしているオカムラ出身の安藤孚さんは事務所名を「環具デザイン研究会」と名づけ
ている。聞けばあのコンペの裏方をやったという。安藤さんの思い入れの深さが伺
われるし、私自身、オカムラと審査員への感謝の気持は持続している。
確かにオカムラ環具コンペは当時、建築界、インテリア界、ID界が競った熱いコンペ
だった。新時代の源流を生みだす転機とすべく企画されたものだと思う。私自身も
受賞した者の責務として主張を続け、思想の実体化を展開すべきという思いもあった。
しかし一方でコンペはコンペが発するメッセージそのものに意味があるのであり、
コンペに乗って自分のテンポを乱すのは避けようという醒めた気分もあり結局マイ
ウェイを保った。                    


若いエネルギーへの期待
パチンコ屋の球拾いも一日100万円も、森有正流に言えば「体験」であって「経験」
ではない。いろんな体験の時期、ずっと持続していたのは未だ姿を見せぬデザインへ
の強い思いだ。その探求の持続こそ経験と呼ぶに相応しい。                               
かつて「型の日本文化復興」を書いた安田武さんに「日本の工業デザインには型が
あるの」と聞かれたことがある。日本の今の成熟したデザインは「様式」とよばれ、
あるいはそれが一種の「型」なのかも知れない。ただ、どこか作りものの脆弱さを
感じてしまう。結論は勿論、「型に入って型を出る」だ。

話はちょっと飛ぶが、今の状況の原型のような状況下にあった江戸時代に、芭蕉は俳句
だけでは食っていけず専門書によれば、神田上水の修復工事の書記役に4年間携わった
という。あの芭蕉がだ。
シェークスピアがテムズ川の工事に携わるなんてことは絶対ありえない。今に続く日本
の文化の裏面史だ。芭蕉はその後、「不易流行」を唱えた。永遠の本質である不易と、
時代の感性とでも言うべき流行との有機的な働きを構造化して創造に生かした。その中
から生まれたシンプルでさりげない17文字が300年の時空を超えて心に滲みる。

 
二十歳代に聞きに行った講演会で、柳宗理さんが「この中で本当のデザイナーになれる
のはせいぜい一人だ」と言った。私も勿論だが、その言葉を聞いた100数十人の若い人
はその瞬間いっせいに「自分だ!」と思ったに違いない。
産学協同プロジェクトも多く行なわれているが、若い人と社会の仕組みが噛み合うのは
決して優しいことではない。学生には「君たちが100人集まったって、タダの100人の
アマチュア集団に過ぎない。」と言っている。しかし、彼らの作品の中に時折、これこそ
と思われるのがある。そんな時は明らかに、それを実現出来ない社会の方がおかしいと
思う。
時代を超えて、若いデザイナーには怒りに近い強い動機と感情と表現がある。自分の若い
頃を思い出し、与件に縛られない若いナマのエネルギーであるが故に、現状の型を破る力
になるかも知れないのだ。元気だせデザインだ。                    


花やしきは本物だ
花やしきは狭い空間に、これでもかとばかり色々な遊具と装置を持ち込み、まるで内臓
のようだ。33度を超す猛暑の中、下町や近郊の庶民の親子で超満員だった。興奮して
無邪気に走り回る子供と若い夫婦を見ていて、ふと、ああ、この素のままのエネルギーは
本物だなと思った。
上の孫娘は高い塔へ猛烈なスピードで上がり何回も上下するスペースショットに8回も
乗り大満足だった。下の子は日本で現存最古のジェットコースターに遂に乗れなかった
のが心残りのようだった。浅草は寅さんの渥美清の出発点であり、道は違うが独り立ち
した私の出発点でもある。明日は64回目の終戦記念日。夏はやはり特別な季節だ。

8月14日記


お気に入り
1972 木の波


オランダデザイン展–––挑発する色とかたち
学生の一人が、オランダのスターデザイナーを多く育てた「droog(オランダ語で乾いた
の意)」の作品群が好きだという。20日にその学生に東京で会ったらdroogの作品集を
持って来た。中国で印刷され主に中国語が書かれている。そこに、国際的なセンスと戦略
を感じた。中国の学生や若い教師の顔が浮かぶ。

帰りに偶然「オランダデザイン展–––挑発する色とかたち」のポスターを見かけ、佐倉市
立美術館で9月23日まで開かれているのを知り、早速行って来た。


前から知っていたマルセル・ワンダースの紐で編んだような「ノッテッドチェア」があった
ので思わず触れると、係の女性からすぐ「触れないで下さい」と注意されてしまった。
以前パルコでロン・アラッドの銅板の椅子に係員が横を向いている隙に触れたことがあるが、
あれもこれも触れなければ分らない。製品ではウィット溢れるものが多かった。
日本の大人のデザイナーはポストモダンの時と同じような反応を示すのだろうが、若い人の
心を惹きつけているのは確かなのだ。フィリップスのシェーバーのヒストリーがしっかり
展示されている。私はリートフェルトの一連の作品を以前この美術館で見たが、今回は
「サイドボード」に圧倒された。再制作だが大阪市立近代美術館建設準備室蔵と書いてある
のを見て「いい着眼点だな」と思った。鉄道のコーナーでケースを覗き込んでいると
資料提供:社団法人日本インダストリアルデザイナー協会乗り物デザイン研究会
という長い名前が目に入った。「やるじゃんJIDA」と思った。

2009年8月22日記                          


佐野邦雄/Kunio SANO
プロダクトデザイナー/Product Designer

JIDA正会員(201-F)

プロフィール:
1938年東京中野生れ。精工舎、TAT勤務後、 JDS設立。
74年 「つくり手つかい手かんがえ手」出版。日本能率協会。
78年〜 ローレンス ハルプリンWS参加。桑沢ほか4校の講師。
79年  JIDA機関誌100号「小さいってどういうこと?」編集。
86年 東ドイツ、バウハウスデッソウゼミナール参加。
92年〜03年 中国のデザイン教育。
01年〜静岡文化芸術大教授。 定年退官後、現在2校の講師。
デザイン: 人工腎臓カプセル、六本木交叉点時計塔など 。
現在、小学1年生で経験した学童疎開の絵本を執筆中。

更新日:2012.01.06 (金) 08:25 - (JST)