genki_6|JIDA東日本ブロック                     

元気だせデザイン・元気だぜデザイン by佐野邦雄

−−−6:「裏方の美学」 −−−国際会議3題。秋の終わりに



ICSID‘71 IBIZA
1971年に地中海のスペイン領イビザ島でインダストリアルデザインの国際会議
が開かれた。主催者はJIDAも所属しているICSID(国際インダストリアルデザ
イン団体協議会)で、2年に1度、各国が持ち廻りで開催していた。JIDAは早く
からその組織に参加していて日本での開催をアピールしていた。そのこともあ
ってイビザ会議も30数名が参加した。イビザ島はヨーロッパの金持ちの避暑地
として知られる美しい島だが、バルセロナから飛んですぐ着いた島の飛行場は
小さな建物があるだけで柵もなくのどかなものだった。坂道の多い町なかの路
地の両側にある茶褐色の屋根と白壁の小さな家々が工房になっていて、そのこ
ろ世界で流行っていたヒッピーが居ついて、工芸品を作りながら売っていたり
した。                          

会議場は海岸ベリの階段状のホテルで、広場にはヨーロッパ各国から来た若い
デザイナーや学生の宿泊用に、芋虫のような形をした大きなエアードームが設
営されていた。早朝、浜辺で一辺が5・6メートルもあるクッションのような風
船に水素を詰めたものをいくつも作り、錘りをつけて船で曳航し、少し行った
ところで一つひとつ錘りを外して空に舞い上げた。ゆらゆらと地中海の青空に
白く漂うのを見ていると、世界中のUFOも誰かがこうして飛ばしているに違い
ないと思ったりした。

会議の運営はおおらかで、きっちりした会議に慣れている日本の参加者は大い
に面食らった。ホテルの小さな部屋の床に座ったり、回りを取り囲むようにし
て討論したり、急に外で行なわれたりした。討論は英語で話題が日本のことに
なり、その部屋の日本人が自分一人と分った時など焦ったものだ。2日目になる
と島の裏側では会議を抜け出した人たちが水着無しで泳いでいるという噂も流
れた。日本のイケメン氏が島の女性に惚れられて、松丸隆団長から「日本へ持
ちこむな」と厳命されたとも聞いた。色々あったが素朴ないい会議だった。 

バルセロナに戻ってバスで隣り合わせたスペインのデザイナーに「日本は今、
公害が社会問題になっている」と話すと、「羨ましい。スペインも早くそう
なりたい」と言われてしまった。

お気に入り
イビザのある朝の光景をモチーフにした表紙。1977 デザイン:筆者



ICSID‘73 KYOTO
日本の盛んな招致活動が功を奏して73年秋に京都でICSIDの会議が開かれるこ
とになった。テーマは「人の心と物の世界」、英文はSoul and Material
Thingsだった。私は当時、JIDAの機関誌委員だったが、その会議の実行委員
会広報委員になった。いよいよ、その日が近づき、10月8・9日、京都での会議
に先立って東京新宿の京王プラザホテルで総会が開かれた。その様子を写した
写真を京橋のラボで夜半までかけて引き伸ばし、早朝東京駅の新幹線ホームで
一歩早く京都に向かう手銭正道さんに手渡した。10日に私も京都に入り、国立
京都国際会館で徹夜の作業を続けた。明け方、裏方トップの木村一男事務局長
が椅子に座ったままの姿勢で眠り、私たち若手はフロアに転がった。やがて受
付が始まり参加者が続々と来るのを横目に見ながらホテルに帰って寝た。

会議は11日から3日間続き、コングレス・ホール、コングレス・プラザ、コン
グレス・シティの3つで構成されたのだが、私は次々刷り上がるレジュメの整
理や配布など息つく暇もなく、セッション参加の記憶がない。                    
だから内容は全てが後日、人づてに聞くはめになった。フランスの記号論のボ
ードリヤールを始め国際的に活躍する著名な識者が多数集まった。基調講演の
梅棹忠夫氏が日本固有の「アニミズム・汎神論」を紹介して欧米からの参加者
を驚かしたという。さもありなんだ。                         

会議はスペインのそれとは全く対照的にきっちりと進み、いよいよ閉会の式典
を迎えた頃にやっと解放されて会場に入った。クロージングの演奏で鬼太鼓座
の太鼓と笛の佐渡おけさが疲れ切った私の脳を直撃した時、となりで外国人の
男女が肩を抱きながら涙を流しているのを見た。妙なことに、私はその姿を見
て初めて、ひたすら労働していた自分の存在理由を見いだした気がした。

栄久庵憲司実行委員長はアジアで初めてICSIDの会議が開かれ「地球が丸くな
った」と表現した。それは製品のみ先行して世界市場へ進出していた日本の
インダストリアルデザインが、初めてモノ・ヒト同時に国際舞台にデビューし
認知された瞬間だったのだろう。                         

一方、会議の成功は地元関西の会員を始めとした、とてつもないエネルギーが
結集した成果でもあったのだ。たとえば会期中、京都をサイクリング・シティ
と名づけて自転車でくまなく見るプランが実施された。それはずっと後に登場
する「エコデザイン」を先取りしたものだが、会期中ずっと町なかで自転車の
管理をしていた会員もいた筈だ。私は会議場にいただけでもマシだったのだ。

今も亀倉雄策さんの最高傑作のあの素晴しい同心円のポスターや、いつかゆっ
くり読もうと思い続けた講演者のレジュメが手もとにある。もしかしたら、
今考えていることが、その中に既に書かれているかも知れないのだが。

お気に入り
ICSID‘73KYOTO 案内書 デザイン:亀倉雄策



ICSID‘89 名古屋
京都会議から16年を経た1989年、名古屋で世界デザイン会議が開かれた。これ
はJIDAの年次大会「JIDAデザイン会議‘85中部」の成功に端を発して、名古屋
市からぜひデザインの国際会議を開いて欲しいと要請があったという。さらに
その延長上に「世界デザイン博覧会」も開かれることになった。      

名古屋での開催が決まり、かなり早くから実行委員長役に内定していた諸星和夫
さんから「東京の盛り上げを頼む」といわれプレ会議として、“世界デザイン会
議‘89名古屋”に向けて−を企画し私は世話人を務めた。今、JIDAの事務局になっ
ているAXISビル4FのL字型のギャラリーをスタートに6回開いた。  

毎回5〜60名が参加して大いに盛り上がった。IDデザイナーだけでなく、周辺
の関係者にもパネリストになって頂いた。2回目には当時、亀倉雄策さんが「俺
より売れてる」とひがんだグラフィックデザインの松永真さんにお願いし、内野
輝夫さんと対談して頂いたが、松永さんから「缶ビールの胴の上部のあの凹みや
段々腹を皆さん許せますか。僕は許せない。」とやられてしまった。身近な生活
の中にこそIDデザイナーが向き合うべきテーマが沢山あるのだと。

5回目は「デザイン化現象を解剖する」と題し、少し背伸びして、やはり時代の
寵児だった京都大学人文科学研究所の浅田彰さんに来て頂いたが、相手をお願い
したデザイン評論家の柏木博さんとの対談はまるで機関銃の撃ち合いで、私は後
になって録音の書き起こしを見て理解するのがやっとだった。私は対談の間、
謝金が5万円しかないことを先に話すべきだったと後悔していたのだ。 

6回目は「現代デザインはムーブメントを生み出せるか?」で、当時青山にあっ
た日立のデザイン研究所の青山オフィスで行なった。向井周太郎さんと和爾祥隆
さんの話の中に「モデルネ」が出た。モダンデザインを形だけで考えていた私は、
その時もっと広く深い意味があることを初めて知った。そのプレ会議の通しの司
会役は、JIDAの機関誌編集長をしていた益田文和さんで、今はサスティナブル
デザインのオピニオンリーダーとして活躍している。

やがて、名古屋会議の実行委員会が正式に組織され、私は総務企画委員長を仰
せつかった。他にも内容委員会とか接遇委員会など色々あったが総務企画委員会
というのは一番分り難い委員会だった。総務と企画がくっついている所がミソで、
会議を運営するため県や市や企業から派遣されてくる事務方とデザイナー側の
調整役と言えば格好いいが、実体は裏方の何でも屋といったところだ。

事務局長は京都会議に続く木村一男さんで、まさに木村さんが言うところの
「毒喰わば皿まで」だ。私は「中身に相応しい形作り」を自分のキャッチフレ
ーズにした。全体のテーマは「かたちの新風景/情報化時代のデザイン」と決
まり、英文はEmerging Landscape:Order and Aesthetics in the
Information Ageで、主会場は「白鳥センチュリープラザ」となった。

それから名古屋通いが始まり数十回通った。勿論仕事もその間続けていた。
当時クライアントが長野にもあり、名古屋の帰りに中央線に乗り長野駅に朝4時
頃着いて待合室で寝たり、その逆をやったりした。全体の予算も自分なりに把握
していなければならず、夜、ホテルに戻って計算機の6桁以下のゼロをタンタン
タンタンタンタンと殆ど自動的に打ち続けた。

提案された様々なプランに対し自分の態度を明らかにしておくことも必要だっ
た。どこか勘違いしているような豪華開会式プランもあれば、これが不採用な
ら帰れないと涙を流した人の案もあった。結果、私は何人かの友人を失った。
事務方は内容より参加人数が尺度なので申込み状況が一番気がかりだったが、
終盤になって急増し3600人になった。富士山とほぼ同じで何となく目出度い。

東京に戻ると、自分が推薦したパネリストとの折衝を行なった。私は哲学者の
中村雄二郎さんに是非加わって欲しいと思っていたので、お茶の水の「山の上
ホテル」の地下のワインバーでお会いして実現した。
いよいよ間際になってソ連から若い人が7・8人来たが市内の宿舎が満杯で、
近郊の里山のユースホステルにタクシーで案内したが、翌日彼らはベッドが小
さくて眠れないと戻って来たりした。

開会当日の10月18日の朝になってとんでもないことが起きた。基調講演は生物
学者のライアル・ワトソンだったが、記念講演の建築家の磯崎新氏が急な腰痛
のため東京から来ることが出来ないという。私たちは何が何でも来て貰おうと、
手分けして東京のヘリコプター会社に片っ端から電話を掛けた。会社の説明に
よると手続きもさることながら着陸のためにはコンクリートなみの硬さが必要
で、学校のグラウンドはチェックできないとのことだった。結局、栄久庵憲司氏
が代役を務めてくれることになったが、その出来事は当時の新聞にエピソードと
して小さく載った。

開会式が始まり分刻みのタイムテーブル通り粛々と進み、「ただ今、世界デザイ
ン会議運営会会長竹田弘太郎のご先導により皇太子殿下をお迎え致します。」と
国井雅比古アナウンサーの凛とした声が会場に響いた。そのシーンは今も日曜朝
のNHKのテレビ番組で国井氏が出るたびに思い出す。

夜には、殿下をお迎えしてホテルでレセプションが催された。私は会場で桜の
バッチをつけた皇宮警察の人と並んで壁に張りついていたのだが、後で聞くと先
導役の一人となった産業デザイン振興会の田中義信さんも、コトあれば身体を張
ってお守りするつもりだったとのことだった。

さまざまなセッションが3カ所で一斉にスタートした。私はメイン会場の事務局に
詰めて対処する役だが、時々会場の様子を見回って熱くなっているセッションの
室温の調整を指示したり、代りの人がいるときはタクシーを飛ばして他の場所で
の進行状況を見て回った。

結局、会期中は京都の時と同じく、一つのセッションにも参加しなかったので、
話題になったこともすべて後で聞くこととなった。知と視覚表現を一体化し独自
の世界を築いたグラフィックデザイナーの杉浦康平氏が「あなたたちはゴミを生
み出している」とプロダクトデザイナーに迫った時、フロッグデザインのハート
ムート・エスリンガー氏が「私たちは、他の人がデザインしたら短いライフサイ
クルのものでも10年は持つようにデザインしている」と冷静に答えたという話も
人づてに聞いた。

プラネット(惑星)と名づけて、情報化社会時代のデザインを網羅的に討議し
た4日間の会議も無事終わり、打ち上げパーティが名古屋城で行なわれた。私は
途中で喧噪から抜け出してホテルへ戻り、裏方でなければ絶対味わえない達成感
と開放感と虚脱感の入り交じった時間に浸った。「これで一つ終った」と。何で
も最後は美学にしたがるのはデザイナーの癖かも知れないが、その儀式を「裏方
の美学」としよう。もっとも最高の美学は「黙して語らず」だろうが。
翌朝、ずっと前から名古屋でデザインの国際会議をと唱えていた渡辺篤治さんが
眠っているという星ヶ丘の墓地へ報告に行った。あれから丁度20年の秋だ。

お気に入り
ICSID'89 NAGOYA カード



石山篤さんは元気だ
11月3日、短時間だが神宮外苑で開かれている「100%デザイン」を見た。
JIDAのコンテナ展示には関係の皆さんがいて、新刊の本やサンプル帳を販売し
ていた。隣のコンテナには自主出展の製品が並んでいてこちらも頑張っていた。
その隣に石山篤さんが「私の新縄文族」と名づけた金属のロッドで作った溢れん
ばかりの元気な女性像をコンテナ一杯に展示していた。私には屋根の上の一体が
秋の陽を浴びてキラキラ光り天空へ向けて何か発信しているように見えた。
今回の作品でグランプリに輝いた石山さんは、見ている女子学生に「あなたが
たも元気な赤ん坊を産むんだよ」などと声をかけていたが、パンフレットには
今まで知らなかったことが書いてあった。

「私は韓国ソウルの生まれです。戦後引揚者として瀬戸内四国のちいさな山村
で育ちました。従って心の奥に広く豊かな母なる大地への憧れがあり、それゆ
えダイナミックな造形への強い表現願望を抱いて東京に出てきました。」と。 
その願いがオートバイのデザインに結実し、今また縄文の喜びにあふれた生命
力の表現に繋がったに違いない。石山さんは「今のデザインは、本当に自分た
ちがやりたいと思っているデザインだろうか。もっと楽しいものを自分はやり
たい」と言っていたが、その一発目を見た気がした。

2009年11月7日 立冬


佐野邦雄/Kunio SANO
プロダクトデザイナー/Product Designer

JIDA正会員(201-F)

プロフィール:
1938年東京中野生れ。精工舎、TAT勤務後、 JDS設立。
74年 「つくり手つかい手かんがえ手」出版。日本能率協会。
78年〜 ローレンス ハルプリンWS参加。桑沢ほか4校の講師。
79年  JIDA機関誌100号「小さいってどういうこと?」編集。
86年 東ドイツ、バウハウスデッソウゼミナール参加。
92年〜03年 中国のデザイン教育。
01年〜静岡文化芸術大教授。 定年退官後、現在2校の講師。
デザイン: 人工腎臓カプセル、六本木交叉点時計塔など 。
現在、小学1年生で経験した学童疎開の絵本を執筆中。

更新日:2012.01.06 (金) 08:27 - (JST)