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元気だせデザイン・元気だぜデザイン by佐野邦雄

−−−8 映画づくりの人々と出会って



その1 ハリウッド映画を見たあとは不機嫌に

私はハリウッド映画を見に行った帰りは大体不機嫌だ。素晴しさに酔いしれて、
見終わった直後は自分が主人公になったつもりで外に出るのだが、暫くしてそれ
が褪めると同時に不機嫌になる。理由は映画そのものではなく、その映画を生み
だす基盤について、日本とハリウッドのスケールの差があまりにも大きいことに、
ついつい思いが行ってしまうのだ。       

デザイナーを長くやって身についてしまったのだが、なかなか自分が結果を享受
する「受け手」になりきれない。たとえば豪華なレストランでムードたっぷりの
所へ行ったとしても、最初は他の人と同じようにその雰囲気に飲まれそうになる
が、数分経つと「何をやっているんだ。お前はこういう空間を考える側の人間だ
ろう」と自分の中の嫌みな奴が囁く。すると途端に「作り手」側の自分に戻って
しまう。仕事の為とはいえ損な性分だ。

その点があからさまに出るのがディスプレィの世界だ。以前数年やったのだが打
合せは夜の10時からが度々で終るとトラックで送ってもらう。帝国ホテルの豪華
な大広間で午前1時から打合せをしたこともある。晴海のドームでブースを請負っ
たときは徹夜作業をして開場が近づくと「そろそろお客様がご入場の時間です。
業者の方は退場して下さい」というアナウンスで追い出された。
そんなことが続くと、いつの間にか「作り手」の自分だけが自分なのだと思うよ
うになってしまう。身についたその癖が作用して、映画の帰りにはどうしても制
作の側に関心が向いてしまい、スケールの大きいのを見た時ほど、帰りは不機嫌
になってしまうというわけだ。                                   

ハリウッド映画の投資の規模と、対応して出来上がっている仕組みが凄い。色々
あるのだろうが共通しているのは、一切が経済に裏打ちされた一つの事業で曖昧
さゼロの徹底した実利主義であることだ。
デザインと違ってマーケティングをするわけにはいかないから、プロデューサー
が手に入れたオリジナルシナリオを色々な立場のスゴ腕のプロが集まって徹底的
に練り上げる。笑いも涙もワンシーンごとにすべて投資対効果でチェックされ、
そこを確かめてから時には150億円もの資本が投入される。監督を決め俳優をオ
ーディションで選びスタッフをそろえて、早々に宣伝用の話題を作り世界中の配
給先に情報を流し売り込みにかかり、上映前には大ヒット間違いなしとなる。興
行が終ると放映権をTVや途上国へ売ってとことん使い切るといった具合だ。                          

映画は昔から総合芸術といわれてきたが、人間の想像力を結集してスクリーン上
に創られた映像、いわば虚像で成り立つ産業だ。お隣の韓国が国策として映画産
業をもり立てて外貨を稼ぎ、本家のハリウッドは3D技術で一層刺激を煽りエンタ
ーテーメントに徹する。                       
その点で私たちのデザインと映画を比較すると共通点と差異点が見えて面白い。
デザインは最終的には形のある実体作りが主なのだが、虚像が人間の心を揺さぶ
り、実体が単なる存在だったりする。
要はどれだけ人間の本質に迫るかだが、どちらも人間の営為であることを思うと、
虚実合わせ飲む底知れぬ生物の存在「人間」に行き着く。それにしても浅草の仏
具屋のコピー「心は形をもとめ形は心をすすめる」は凄い。




その2 「映画の撮影とは、愛を技術で描くことです」と大林宣彦監督

身内の話で恐縮だが、その昔、私の家には映画の撮影が終わった時に、監督を中
心に俳優やスタッフ全員が何列も並んで撮った大判の写真が何枚もあった。小学
6年の時、世田谷の砧にある東宝撮影所へ行ったことがある。昭和23年に、労使
抗争が激化し米軍の戦車まで出動し「来なかったのは軍艦だけ」といわれた所だ。
そこに父方の伯父が戦前から勤めていて、私のために艦船を浮かべる特殊撮影用
の大プールで特大の扇風機を回して波を立ててくれたりした。伯父さんの家族は
京都の太秦(うずまさ)という撮影所で有名な町に住んでいて、そこはまさに映
画一族だ。
伯母さんの姉妹は、戦前から戦後にかけて活躍して長谷川一夫や山本富士子を育
てたといわれる衣笠貞之助監督に嫁いだ人で、衣笠潤子という女優だった。私の
いとこに当る長男の武治さんは若い時から映画の照明一筋で、以前東京で会った
時も町中で首から露出計をぶら下げていたが80才の今もバリバリの現役だ。その
息子も照明の道にいる。

武治さんは「照明の神様」と呼ばれているらしいが、永年の実績と照明専門の人
びとの協会の会長を務めていることもあって昨秋受章し、2月に東京会館で仲間
によるパーティが開かれ私も参加した。会場は監督やスタッフが大勢集まり映画
人独特の雰囲気を醸し出していたが、真っ赤なスーツの岩下志麻さんと篠田正浩
監督ご夫妻はすぐ分った。式が始まり挨拶に立った篠田監督は「自分が一番きつ
い時に瀬戸内少年野球団をはじめご協力頂いた。初めて会った佐野さんは、まる
でシルクロードから来た人のようで、日本人ではないのではないのかと思われる
ほどのエネルギーを感じた」と話した。
続いて「時をかける少女」を始め人間愛を独自に描き続ける大林宣彦監督が挨拶
に立ち、かつて黒澤明監督から「佐野さんの照明いいだろう。キャンパスに油絵
を描いているようだ」と言われたことなどを紹介したが、ヒョイと「映画の撮影
というのは愛を技術で描くことです」と言った。その言葉を聞いて私は反射的に、
1952年、JIDA創設の日に小池新二氏が「デザインは工業のヒューマニゼーショ
ン(人間化)から出発している」と挨拶されたということを思い出し、小池岩太
郎先生が常々「デザインは愛だ」と言われたことを思い出した。偶然だなという
思いと何ごとも究極は愛なのだという思いが同時に浮かんだ。


お気に入り
壇上の大林宣彦監督。左手に赤いスーツの岩下志麻さんと篠田正浩監督


それから紹介してもらって大林監督と言葉を交わし、私たちが同じ年齢であるこ
とが分った。「私はとりあえず、いとこが80才で現役でいますから、80才まで
は頑張るつもりです」というと、大林さんは「映画界には98才で現役の進藤兼人
さんみたいな人がいますからね」と言った。私は大林さんにこれからも期待した
いのだが、期待の中身は祝いの席では重すぎるので、またいつか話す機会を持ち
たいと思った。                     

それと言うのも、私たち戦争末期に子供だった世代が共有する課題について自分
なりというか自分達なりの、けじめがついていないという気持が強いので、私は
同世代のクリエイターに会うとそこへ話を持って行く癖がある。それは語り部と
して次世代に伝えるべき範疇を超えて、あの時代情況を経験した中から創造の道
を志した人間として、自分の創造活動を通じてその課題と向き合って欲しいとい
う思いだ。クリエイターではないが、例えばジョン・ダワー氏は戦勝国アメリカ
の学者だが「敗北を抱きしめて」のタイトルで、敗戦後の日本人の精神と行動を
克明に調べて本にまとめている。ダワー氏も同じ年だ。               

こんな思いは今の平和風な社会では、単なる過去への感傷的なこだわりとか自虐
的と括られるだろうが、その視点で見ると普通とは違ったものになる。深読みか
も知れぬが、たとえばアニメーションで自分の世界を築いた宮崎駿監督は同世代
だが、一連の作品を通して「一人の人間はここまで想像力を発揮できるのだ」と
いう限界に挑み、生きている人間の可能性を暗に知らしめているように思える。
自分の想いを通常の映画の方法で表現するのは大きな困難を伴う。しかし、アニ
メーションは猛烈な努力と引き換えにそれを可能にする方法だ。そして、さまざ
まな戦いを描きながらもそうした人間本来の可能性も含めて、すべてを抹殺する
戦争の本質をふと考えさせるのだ。
東ドイツ時代、ベルリンの議事堂の壁面にごくごく普通の家族のピクニックの光
景が大きく描かれた作品があった。「この普通の生活を皆が望んでいるのです」
とのことだった。想像の限界を描いた映画、普通を描いた絵画。そのメッセージ
を読みとるのは私たち自身だ。

宴の終わりに近く、黒沢明監督とともにあった名スクリプターの野上照代さんが
挨拶に立ち、「佐野さんがいなかったら黒沢作品は出来なかった、と同時に佐野
さんも黒沢さんがいなかったら出来なかったという関係です」と話し、「佐野
ちゃんは影武者から加わり、黒沢の最終を飾りました。今は黒沢が100才まで生
きていたらと思います」と話した。
克明な絵コンテを自ら描いてから撮影に入った黒沢監督のイメージを他者が飲み
込み、消化して現場で具現化するのは至難の業だ。黒沢組の人たちはそれに挑戦
し成し遂げたのだ。野上照代さんの話は、そこを知る人だけの言葉だと思った。

テレビ時代に入り、日本の映画界の人びとは長い不遇の時代を経験したのだが、
地中でからみあっている木の根のような強さを持ち、しかもどこか温かさも感じ
させた。千野浩司監督は「この世界は義理と人情の世界です」とそこをさらりと
表した。私はエネルギーを秘めたこの苗床の中から、日本人の機微に触れたシナ
リオにより、身の丈サイズの優れた作品が生まれるのだと、その時初めて気がつ
いた。それはハリウッド方式に拮抗し得る日本固有の映画文化だ。
国内から国際へ、特にアジアに受け入れられる作品も多い。以前、中国で吹き替
え版の高倉健主演の映画をテレビで見たが、何語を話しても健さんは健さんだ。
映画でしか表現できないこと伝わらないことが絶対ある。

かつてインタビューしたドキュメンタリー映画の亀井文夫さんの言葉を思う。
「花の絵の日本一は名の売れた画家ではなく、毎日毎日焼き物の絵付けをしてい
るおばあちゃんだ」
「画家は自然と共生なんて言ってはいられない。油断したら最後の最後に、野原
に咲いている一本の花に負けたと言って終るんだ」
「アスファルトの道路の割れ目から生えている草や花の生命力と美しさ」
「雉は蛇に巻かれた時、最後の瞬間にバッと力を込めて羽を開いて蛇をバラバラ
にしてしまうんだ」と。
それは今も日本の映画人の多くが秘めている意気に違いない。




その3 「映画」と翻訳した人

また身内の話で恐縮だが、私の母方の伯母の連れ合いは本山荻舟という物書きで、
料理評論家として日本の食の字引として知られる「飲食事典」を著したり演劇評
論をやったりした人だが、元々は新聞記者で亡くなったときは「明治最後の新聞
記者」と書かれた。昔は文字校正を「朱を入れる」と言ったそうだが、脇に一升
瓶をおき朱を入れながら逝った。ピンピンコロリの極みだが、それは私の理想の
姿だ。

数年前、荻舟が著した本を読んでいる時にある発見をした。「イルミネーション
を電飾と私が翻訳して使ったのが、最近広く使われているようだ。」「それとシ
ネマを映画としたのも広がっている」と書いている。諸説があるのだろうが私は
身内なのでこの説を信じている。亡くなってから伯母から「お前には○○の血が
流れているのだから、人様から後ろ指を指されるようなことはしてはなりませぬ」
という言葉とともに荻舟の袴を頂戴した。その儀式は多分、好き勝手をしている
子孫を諌める一番手っ取り早い方法として選んだに違いないのだが。


お気に入り
人間の一生 1978  デザイン:筆者




その4 「今度生まれてきたら、お前たちを皆殺しにしてやる!」

物騒な見出しだが、私も演劇の道に入りそうになったことがある。戦災を逃れて
長野と神奈川を経て6年後の中学1年にやっと東京へ戻ったが、転校生の私を励ま
すためか2年の時、理科の先生から学校の文化祭で上演する木下順二作の「三年
寝太郎」の寝太郎をやれと言われた。いざ当日になって幕が上がった途端、正面
のライトがまぶしくて100個もあるセリフの一つ目が出てこない。
なんとか終って笑いと拍手にやっと我に帰ったのだが、地でいった演技が好評ら
しかった。暫くするとその先生から「実は私は外で演劇の勉強をしているのだが、
その学校の卒業公演で子役が必要なのだ、それをやって欲しい。」と言われた。
演劇の学校は池袋にあり「舞台芸術学院」という名前だった。その先生は血気盛
んで、当時起きた皇居前広場の「血のメーデー」の次の朝は血の滲んだ鉢巻きを
したまま教壇に立ったものだ。

卒業公演にはプロの演劇集団で今も盛んに活躍している「テアトル・エコー」の
人びとが加わった。稽古は夜行われ私も何回か参加した。私は劇そのものよりも、
その集団に参加している様々な人に興味を持った。俳優の中にはその後TV時代に
なって活躍した人が何人かいた。
上演はロマン・ロラン原作の「時は来たらん」で、私は戦場で兵士に銃殺される
子供でセリフはただ一つ「今度生まれてきたら、お前たちを皆殺しにしてやる!」
と絶叫する役だった。一般公演で何回か公演したが、ある日階段の踊り場で一人
の老人に紹介された。老人は「君、頑張りたまえ」と大人に言うのと同じ力強い
調子で私に声をかけた。あとで聞くと秋田雨雀という人で日本の新劇界の先駆者
とのことだった。

私はその頃、自分の将来を漠然と考えていたが、出来れば好きな絵の道に進みた
いと思っていた。しかし、1年の担任が芸大を出たばかりの人で、髪はぼうぼう
腰には手拭いのいでたちで、私は絵だけでは食って行けないことを子供心に感じ
とっていた。そんなある日、図書室で「これからの日本では工業デザインという
職業が大切になる。」という一節とイラストを見つけて「これだ!」と心に決め
た。3年の文化祭で再び主役を演じたこともあり、もし、図書室であの本と出合っ
ていなかったら、演劇の人びとのあの雰囲気に引かれてその道を志した可能性も
あった。

髪ぼうぼうの先生とは卒業してすぐ池袋の画材屋で偶然会った。
先生は「絵は自分だぞ」と謎のような言葉を私に残した。少年の日にかけられた
二つの言葉、秋田雨雀の「君、頑張りたまえ」と、その「絵は自分だぞ」は今も
なお持続し、休むことを許さない。


お気に入り
「CHIGIRI–現代空間に向けた立体成形和紙のあかり」展




清水忠男さんの心優しい作品


4月、OZONEで千葉大を2008年に退官後デザインの実務に戻った清水忠男さん
が教え子の金澤匠平さんと開いた「CHIGIRI−現代空間に向けた立体成形和紙の
あかり」展を見た。
清水さんは剣持デザイン研究所時代、当時話題になった数多くの斬新な家具デザ
インを手がけた人だ。80年代、渡米してワシントン大学で教えている頃、たまた
ま両足を痛めた同僚のために車椅子をデザインしている。腰部のうっ血を防ぐた
めに背を身体の動きにそって動かせるようにしたり、カーボンなど新素材を取り
入れた車椅子だ。私には車輪の側面が黄色い車椅子を本で初めて見た時の印象が
強く残っている。ハーマンミラー社のデスクシステムデザインでアメリカ工業デ
ザイナーズ協会の年間最高賞を受賞するなど活躍して帰国後、千葉大の教授にな
りユニバーサルデザインの領域でも活躍されたが、時折、家具デザインを発表し
ていた。

今回の「あかり」は和紙を型の上にのせて形づくるもので、フレームレスで手触
りの感じを生かした、雲のような柔らかなフォルムの中に光源が入っている。3
タイプあって吊るしたり置いたりできる。「最近のクラウド・コンピューティン
グから発想したのですか」と聞くと、そうではなくて浮世絵の雨の降る光景から
ヒントを得たとのこと。紙で造形する方法は自分がイメージすれば色んなフォル
ムが出来るので、これから発展させたいとのことだった。

清水さんは「私も以前はアメリカでガチガチのIDやってきましたから」と笑った
が、最近はマーケティングで想定した人びとではなく、相手の顔が見える所に向
けてデザイン提案をしているという。例えば保育園の保母さんの「子供を椅子に
座らせていると、いつの間にか逃げ出していなくなる」という話から、原因は椅
子にあるのではと考えて改良したり、近所の老人の「玄関で靴を脱ぐ時に杖の置
き場に迷ってしまう」という話から、杖の置ける椅子をデザインしている。
私は使い手の側に立った清水さんのデザインに以前から優しさを感じていたが、
途絶えることなく力むことなく持続するヒューマンな作品群は清水さんの人柄
そのままだなと思わせる展覧会だった。

夏至 緑色の羊のような山々を車窓に見ながら




佐野邦雄/Kunio SANO
プロダクトデザイナー/Product Designer

JIDA正会員(201-F)

プロフィール:
1938年東京中野生れ。精工舎、TAT勤務後、 JDS設立。
74年 「つくり手つかい手かんがえ手」出版。日本能率協会。
78年〜 ローレンス ハルプリンWS参加。桑沢ほか4校の講師。
79年  JIDA機関誌100号「小さいってどういうこと?」編集。
86年 東ドイツ、バウハウスデッソウゼミナール参加。
92年〜03年 中国のデザイン教育。
01年〜静岡文化芸術大教授。 定年退官後、現在2校の講師。
デザイン: 人工腎臓カプセル、六本木交叉点時計塔など 。
現在、小学1年生で経験した学童疎開の絵本を執筆中。

更新日:2012.01.07 (土) 07:17 - (JST)