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わたしのあかり by 石田聖次

 

●01
闇が迫るという感覚・・子供のころ、団地に住んでいた。その団地の中心には小さな
公園があり、近くに住む子供たちはその公園で暗くなるまで遊んでいた。

そして、世間では東京オリンピックが終わり都市化が加速している中、幼稚園とその
公園が幼かった僕にとって世界の全てだった。親たちも、団地に守られた公園に安心し、
子供たちを暗くなるまで遊ばせ夕食の支度が終わった頃に迎えにくる。
いつも薄暗い中に白い割烹着姿の祖母が現れるのを待っていた。
ある日、友達はみんなかえってしまい一人公園に取り残された。

気がつくと周囲は暗くなっていた。
昼間、くっきりとした滑り台の陰も無く、砂場の起伏も見えなくなっている。
家々の窓からは今で言うところの暖かいあかりが灯っているが、その頃の自分には、
“あれは自分の家ではない”という考えが先行し、寂しさを加速させる。
また、各戸の玄関に付けられている明かりは、自転車や植物に大きな陰を作り恐怖心を演出する。
陰の中には何が隠れていても解らない。友達に驚かされたり、野良猫に驚いたことも
何度もある。闇に対する警戒心から、闇を想像し予測するようになった。
そして、いつの間にか闇に自分の世界をつくって楽しむようになった。

夕暮れ時の白い割烹着・・これは、かなり印象的に見えているはずです。太陽光が地球を
かすめるような状態は、低波長の青と紫外線などが大気に残り、他の色身は通過しています。
白い色には敏感に反応する時間帯なんです。
見るという行為は、反射する光を眼で捉えるということですから、暗くなると眼に入る
反射光が少なくなり、見えてくるものが少なくなります。眼は視野のなかで一番明るい
ところに瞳孔を調整しますから、玄関灯などの輝きとの対比で陰は強くなります。
特に子供の視点だと、見上げることが多いですから、顕著にでます。



●02
幼年期の自宅は、各部屋にシンプルな電球ペンダントが一つと、台所と玄関に似たような
ガラス製のシーリングライトがついていた。狭い部屋に両親と兄と弟、そして祖母の6人が
小さな食卓で食事をしており、大人がペンダントに頭をぶつけるたびに陰がゆらゆらと
部屋のなかでうごめき始める。脱ぎ散らかした靴下が動いているのを見た記憶は、
その陰が大きくなったり小さくなったりしている状況だったのかもしれない。

ある日、蛍光灯がやって来た。
プルスイッチを引くと部屋中に明かりが満ちあふれ、タンスの上の奥の天井とか、
机の下とか、テレビスピーカーのスリットの向こうのメッシュとか、何もかもが見えて来て、
これはなんとすばらしい照明器具なんだと感心したことを覚えている。あの頃は、
9時前には明かりが消されていたので、そこから常夜灯の世界が始まる。日中の忍者ごっこ
などの遊びの延長で、“忍者は暗いなかでも見えるらしい”ということから、
布団を被りながらモノを見るという訓練をした。でも、殆どの場合すぐに寝てしまったが、
父が帰って来てテレビなどを見出すと、その静かな常夜灯に別の世界の扉が開いたような
感覚になった。
そのころは、小児ぜんそくだったせいもあり、夜中になると咳が止まらなくなる。
そんな時は、父や母や祖母が背中におぶりながら、団地のまわりを回ってくれた。
団地の玄関灯と、目の前にある高架駅の白熱灯が神田川に映り込み、きらきらと光っていた。

あの頃は、自然光とともに暮らしていた・・という感覚がありました。夜は暗いのが当たり前で、
照明器具はあくまでも補助的に使われていたような気がします。一般的に使われていた
電球というのは点光源なので、部屋のなかの中心に電球を設置すると、そこを中心に
放射線状に光が広がることになり、陰も強くなってしまいます。それに対比するように蛍光灯は、
面発光するので光が回り込み陰は出来にくくなります。そして、なんと言っても
効率が良いので、当時の60Wの白熱灯に比べると40Wの蛍光灯で3倍ぐらいの明るさを
得ることができました。それは、狭い空間にごちゃごちゃモノを置いていた時代では
“豊かさの象徴”となっても仕方の無いことで、部屋も広く当たり前のように明るく
している現代では想像できないかもしれません。

外部照明も必要なところに最低限の明かりが在るような状況なので、少し離れると
夜景に溶込んで、星のような優しい輝きを放っていました。



●03
小学生になると、世界が少し広がった。小学校・同窓生の家・駄菓子屋・原っぱ・池・森
・神田川などと今では考えられない環境がそこにはあった。

自然が多く、遊び場には不自由が無かったので、ほとんどの時間を外で過ごしていた。
もちろん小学生なので時計など持たず、その季節ごとの太陽の状態によって返る時間が
解っていたような気がする。当時僕が住んでいたところは井の頭線と荻窪通り(今の環状8号線)
が交差するあたりに位置していて、大きな建物と言えば教会と銀行と住んでいた家とは
別の団地と給水塔で、井の頭線の高架駅から、それらを含めた全てが見渡せることができた。

空が大きく、その変化を感じ取れる環境だった。
子供の頃は忍者に憧れていて、闇夜でも見えるし、昼間の星だってみる事ができるなど
という事を聞いたせいで、空ばかり見ていた。
青空の向こう側・・一番星・・夕焼け・・日の入り・・星空・・それらの全てを見て、
感じる事で、宇宙と一体化したパワーが宿るような気がしていた。いつの間にか環状8号線が完成し、
10階立てのマンションが出来、建物の高さが高くなって行く事で、空が狭くなってしまった。
そして上級生になり、室内での光に無意識な生活が続いた。

太陽はいつも同じように輝いているけど、受ける方の在り方が変るため常に変化している
ように感じます。それは、太陽と地表の位置関係によるものです。立ち位置から太陽が
見えなくても、太陽光があたっている大気は見えますから夜明け前から空は明るくなります。
太陽が直接見えだす日の出前後は、最も多くの大気を通過して来るため、低波長の青系の
色身が途中で吸収され、高波長の赤系の色身が見えてきます。昼間は太陽の位置も高くなり、
大気を通過する距離も少なくなるので、青みが強くなります。それに、最も明るく暖かい
時間帯とも言えます。青空というのは、太陽光の低波長が大気にたまっている状態です。

また、太陽光の影響が無い大気の輝度が低下するため、星などの繊細な輝きが見えてきます。(明暗順応)
これは、一日の推移での話ですが、年間を通しても同じような関係があります。
そのような光の推移を体は記憶していて、光により規則正しい日常を送る事が出来るように
“体内時計”(サーカディアンリズム)が働きます。
昔の空は、広く大気もきれいだったので、光の変化も繊細でした。
多くの空の思い出を持っています。




わたしのあかり2へつづく

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石田聖次/Seiji Ishida

有限会社ライトシーン代表取締役

Mail:info@lightscene.co.jp
URL:http://www.lightscene.jp/

更新日:2012.01.06 (金) 07:52 - (JST)