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乗り研:研究(探訪)エッセイ『山手線一周』…「駅之(一)鶯谷」

時が経つのは早いもので、すでに1ヶ月半も前のことになるが、「乗り物デザイ

ン研究会」[乗り研East]では、初めての定例「研究(探訪)オフ会」を開催
した。ちなみに当研究会では、定例会のあり方として、「研究(探訪)の部」に
ついては、可能な限り団体行動とせず、指定されたエリア内の好きな場所で、
参加者がそれぞれに都合のよい時間に、自身の興味に基づく個別テーマに沿っ
て、自由に研究(探訪)することを重視している。また、その活動報告や情報
交換は、必ず同日中に設定される「オフ会の部」で行い、その後は、乗り研East
のウェブ「エッセイ」やブログ「リポート」などを活用しながら、文章のかた
ちで振り返り、分析や事後調査の結果も加えながら、継続的にまとめていく。
記録[画像その他]の蓄積・整理を怠らないよう心がけるのは、いうまでもな
い。これを踏まえて実現した「第1回」は、以下のように挙行された。
 
■開催日: 2009年4月4日[土]
■研究(探訪)の部
共通テーマ: 山手線一周[10:00〜17:30]
■オフ会の部
共通テーマ: 駅ナカの集い[17:30〜20:00]
場所: JR上野駅 中央改札内、蕎麦居酒屋「いろり庵」
■参加者: 7名
 
「研究(探訪)の部」の成果報告は、現在、「連続エッセイ」として、鋭意、編
纂中である。「駅ごとに1篇」を意図しているため、進捗のペースが捗々しいと
はいえないが、このたび「駅之(一) 鶯谷」を脱稿したので、この場を借りて、
披露させていただくことにした。
 

凌雲橋から一望する鶯谷駅と山手線外回り[E231系500番台電車]


研究(探訪)エッセイ 『山手線一周』「駅之(一) 鶯谷」
 
2番線・3番線に山手線内回り・外回り、1番線・4番線に京浜東北線北行・
南行を配した、2面4線の島式プラットフォームを有する「鶯谷」[うぐいすだ
に]は、武蔵野台地の東端と、その西側に広がる低地のちょうど境目に位置す
る駅である(注1)。山手線の駅としては、かなり閑散とした印象のプラットフ
ォームに立つと、周辺の地形的な特色は一目瞭然で、南西側には石垣が立ち上
がり、その上に寛永寺の墓地、東京国立博物館の北庭などが広がる。これに対
して北東側は、隣の上野駅から、山手線内回り方向に90度の大きなカーヴを描
いて併走する宇都宮線、高崎線、常磐線、留置線を望み、これらの路線の向こ
うには、根岸一丁目の歓楽街が線路ぎわまで迫っている。その開業は、まさに
「明治」の幕が下りようとしていた1912[明治45]年7月11日(注2)。遡る
こと6年前[1906年]に「日本鉄道」から国有化され、3年を経過して[1909
年]名称が定められた「東北本線」の駅として始まった(注3)。開業にあたっ
ては、鶯谷から日暮里までの路線整備も行われ、電車線が複線化されたという。
 
この駅で興味深いのは、まず、崖下に寄り添うプラットフォームから離れた、
二つの改札口の対照的な相貌である。何本もの線路の下を潜る通路のはるか先、
地上にある「北口」は、駅舎こそ、改札、自動券売機、キオスクが一列に並ぶ
だけの「現場小屋風」の素っ気ない造りだが、昭和30年代の場末感が濃厚に漂
う遊興街のただ中にある。狭い通りをはさんで対面する「元三島神社」は、敷
地・建物の一部を居酒屋と分かち合い、猫の額のような周辺一帯は、山手線沿
線でも有数の密集度で知られる「連れ込み宿」の天国だ。ちなみに筆者は、今
回の研究(探訪)テーマのひとつとして、「山手線各駅の改札内外の様子、ひと
つの駅につき、複数の改札から出入場し、もっとも線路に近い道づたいから、
当該の駅を観察することで見えてくる山手線の風景」を当初から挙げていた。
よって、桜も満開の、晴れた土曜日の午前10時過ぎ、というのどかな時間帯に、
もちろん独りで、わざわざこの高名なるあやしい隘路を抜け、言問通りの「鶯
谷駅下」交差点から山の手側を目ざして歩いた次第。
 
すると、先に触れた「特異な地形」のために、すぐさま道は急勾配となる。左
右の歩道にも階段が設えられ、これを上がると、幾条もの線路を越える「凌雲
橋」に到達する。緑青色の鋼鉄製手すりが鮮やかなこの陸橋は、鉄道好きなら
ずとも、絶好の眺望・撮影スポットに他ならない。時刻表を片手に、あるいは
それを頭に刻み込んでおもむけば、お目当ての、ふらりと立ち寄っても、実に
さまざまな列車、珍しい車輛に出会うことができるからだ。やがて、橋を渡り
終えたところで探訪人を出迎えるのが、もうひとつの改札を擁する「南口」駅
舎である。辺りの景色はがらりと変わり、駅前に一軒の蕎麦屋、道の両脇には、
「台東区立忍岡中学校」と「寛永寺第一霊園」の塀が連なっている。中学校の
すぐ先は、いくつもの寺が並ぶ上野公園の西端。その静かな佇まいと、「精進落
とし」の色街に発祥したという根岸の喧騒との対比が、いかにもおもしろい。
そして、これら二つの風景の「かなめ」となるのが、竣工1928[昭和3]年の
古い駅舎、としてよいだろう。


鶯谷の縁起を記した板絵[南口改札の内側、天井下に掲示]

1番線・2番線プラットフォームから上屋を見上げる

山手線の多くの駅が大幅に改装され、急速な建て替えも進んでいるこの頃、た
とえ残存するのが部分であっても、古い建造物は必見・必録であり、その意味
でも、鶯谷は拠点的な研究(探訪)の対象といえよう。[ゆえに筆者は、「山手
線各駅の駅舎」もまた、必須の個別テーマとして掲げた。] 鶯谷の場合、「南
口」駅舎は、鉄筋コンクリート造、薄いクリーム色の吹付け塗装を施した平屋
で、宝形造の赤い瓦屋根を戴き、高下駄を履いたような足下を、京浜東北線の
北行電車が轟音で通る。この「橋上駅」自体の意匠は、東京駅[復元工事中の
丸の内駅舎](注4)、原宿駅(注5)などにくらべると、決して「Aクラス」
とはいえない。また、自動券売機やコイン・ロッカー、その上に懸かる庇の設
置で、ファサードのオリジナリティは完全に失われている。
 
だが、南口、跨線橋、二つのプラットフォームを結ぶ長い木造の通路や、プラ
ットフォーム上屋の間に渡された、ペディメント風の軽やかな鉄アーチ群も含
めて考えるならば、鶯谷は、単なる「懐かしの駅」として片づけるわけにはい
かない。「南口」の駅舎単独にしても、凌雲橋から仔細に眺めると、階高のある
橋脚とは対照的に、平たいフォルムを特徴とする正方形プランの建物、その軒
下から伸びる細長い窓といった特徴を観察することが可能であり、竣工時の意
匠が一部であるにせよ、瓦の色彩も相まって、大正末期から昭和戦前にかけて
流行したスパニッシュ様式、モダニズムの香りが感じられる。さらに、上屋を
支える梁や柱を成し、線路・列車上の空間に、漣のようなアクセントを添える
鋼材には、イギリスやアメリカの製鉄メーカーのものに交じって、官営八幡製
鐵所で精錬された古いレールが現存し(注6)、近代日本の産業遺産という意義
も、この小駅に見出すことができるのだ。


南口改札のある古い駅舎[木立の向こうは寛永寺の墓地]

傾斜地に建つヴィラの離れ、あるいは釣殿にも模せられる駅舎を改札内外から
堪能し、次なる駅へと、跨線橋の階段を勇んで下りていくと、行きかう列車の
交響や発車メロデイの間隙をぬって、ウグイスの鳴き声が聞こえてきた。もち
ろんホンモノではないが、「北口」へ至る地下通路に描かれた「紅梅白梅に鶯」
の壁画、「南口」の改札横に見上げる板絵「鶯谷の由来」と呼応し、和やかな気
分をかもし出す。板絵の縁起は、江戸中期の地誌『江戸砂子』を引用し、まこ
とに愉快な結びとなっているので、それを紹介して、ひとまず「山手線一周の
道中」に戻りたい。「…関東の諸鳥の囀りがみな訛りがあるけれど 当所の鶯は
皆上方の卵なので 東國の訛りがなく 音色にすぐれていたという ≪江戸砂子
より≫」(注7)

 
橋本優子[乗り物デザイン研究会代表/宇都宮美術館 主任学芸員]
 
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(注1)住所は「東京都台東区根岸一丁目4-1」、電報略号は「ウス」。
(注2)同月29日に明治天皇が崩御、翌30日に元号が大正となる。
(注3)よって、正式な所属路線は、未だに「東北本線」である。
(注 4)開業1914[大正3]年12月20日。「東京中央停車場」[同年竣工]として始動した丸の内駅舎は、明治期に日本の近代建築を拓いた巨匠、辰野金吾 の設計による。東京大空襲[1945年]で大きな被害を受けた後、八角形ドームを有する2階建ての「現状」となったが、現在、竣工時の様相[円筒形ドー ム、3階建て]に戻す大がかりな工事が、2010[平成22]年度末を目処に進められている。
(注5)開業1906[明治39]年10月30日。現存する木造の駅舎[竣工1924年]は、当時の鉄道省技師、長谷川馨の設計によるもので、ハーフ・ティンバ
ーの美しい意匠、屋根上の小さな塔屋などは、大正時代の住宅建築も髣髴とさせる。
(注 6)目視で確認できる最古のものには、1902[明治35]年の刻印が見られ、駅の開業、駅舎の竣工より時代が遡る点に留意されたい。つまり、プラット フォーム上屋の構造材には、古いレールが活用されたと思しい。レールを供給していた国内外の製鉄メーカーは、社名やロゴマークの刻印から読み取ることがで きる。
(注7)俳人の菊岡沾涼が編纂した『江戸砂子』[江戸砂子温故名跡誌]は、6巻から成る江戸の地誌で、1732[享保17]年に刊行され た。続編[1735年]や改訂版[1772年]も存在する。これを引用し、地名の由来について記した板絵の全文[原文ママ]は、以下の通り。
「鶯 谷といえば 人々は鶯谷駅のあるそれを想うであらうが これが明治以後につけられた名稱で江戸時代の鶯谷として知られてゐるのは こヽではなく 今の谷中初音町にあって 鶯谷といったのである 初音町というのは 明治二年に出来た町名であるが その起りは前から初音町三丁目にある靈梅院附近の森を『初音の森』といってから 初音の森にもとずいているのである 初音の森といわれるようになったのは 此の附近に鶯が沢山いたので鶯にちなんでつけられたのであり この靈梅院附近には 龍泉寺 海藏院 長明寺 上三崎北町の本立寺加納院 観音寺の七ヶ寺が立ち並んでいて この下の谷を『鶯谷』といったのでその名は鶯の名所であったからである それは 元祿の頃 東叡山輪王寺の宮 即ち上野の宮様が 京鶯を数多くこヽに放されたので 年の寒暖によっておそい早いはあるが 立春二十日頃から初音を発した 関東の諸鳥の囀りがみな訛りがあるけれど 当所の鶯は皆上方の卵なので 東國の訛りがなく 音色にすぐれていたという 江戸砂子より ——有限会社ナガヰ廣洋社 代表者 永井徳治」
 
[01]凌雲橋から一望する鶯谷駅と山手線外回り[E231系500番台電車]
[02]鶯谷の縁起を記した板絵[南口改札の内側、天井下に掲示]
[03]1番線・2番線プラットフォームから上屋を見上げる
[04]南口改札のある古い駅舎[木立の向こうは寛永寺の墓地]
(C)Noriken East, Japan – photo by Yuko Hashimoto, 2009

更新日:2012.01.06 (金) 10:39 - (JST)